【ももクロ考その4】玉井詩織の覚醒 どうやって壁を突き抜けたのか
少し日が経ってしまったが、、先週の木曜日は「坂崎幸之助のももいろフォーク村」2月分の放映日だった。
今回は、番組の音楽監督を務める武部氏の誕生日前日ということで、「武部聡志生誕祭」という趣向。
これまで武部氏が作曲、編曲などで曲作りに携わった数多くの楽曲の中から、本人がセレクトしてももクロメンバーを指名し、歌ってもらうというコーナーが設定されていた。
武部さんが、「この子にはこの歌を歌ってほしい」とリクエストするわけだ。
このコーナーが、とっても良かった。
音楽監督としてキャリアの長い武部さんの見立てが優れているのは言うまでもない。
5人それぞれの魅力を引き出す選曲がお見事で、どれもすてきなマッチングだった。
中でも、、、今回、際立って僕の目を引いたのは、玉井詩織。
黄色がテーマカラーのすらっとした美人だ。
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【ももクロ考その3】失敗しても大丈夫さ
いま、フジテレビ系CSチャンネルで、「坂崎幸之助のももいろフォーク村」再放送をやっている。
1月の放送分。ゲストは広瀬香美さん、WaTなど。
WaTは解散宣言をしたので、ももクロとの共演はこれが最初で最後、、、というのが今回のウリ。
第1回にも書いたとおり、僕がももクロにはまっていったきっかけは、この番組だ。
生放送で、リクエストを受けた歌をメンバーが次々に歌っていくという設定は、メンバーにとってかなりシビアなチャレンジだろう。
何しろリクエストしてくる視聴者は老若男女、幅広い。それぞれの思い入れに基づいて、「この曲が聴きたい!」という希望を送ってくる。ももクロメンバーが生まれるよりずっと前に作られた曲も、容赦なくリクエストされる。
歌う曲がいつ確定するのかはよく知らないが、たぶん放送数日前に初めて聴いた曲を、ガーッと練習して披露する、なんてこともあるんじゃないかな。
それできっちり歌いこなすんだから偉いものだ・・・と、文章の自然の流れから言えばそういう展開になると美しいのだけれど、、、現実は必ずしもそうではない。
ときどき、大失敗が起きる。
続きを読む【ももクロ考その2】アドラー心理学とももクロの意外な結びつき
「ももクロは各自の個性を大事にする」って何気なく書いたけれど、「個性」って、真面目に考えるとなかなか難しい概念だ。
みなさんは、自分の「個性」がどんなものなのかを、どうやって自覚するだろう。
よくあるのは、子供のころから親や先生に「あんたはいっつも元気だね」とか、「馬鹿正直だけが取り柄だね」みたいな感じで言われて育ち、自分でもそういう人間だと思っている、みたいなストーリー。
それが前向き評価ならまだいいけど、「ほんと、トロい子だねあんたは」みたいなネガティブ評価をいつも投げかけられて育つと、自分はそういうダメな存在なんだ、といった自己評価が根付いてしまって、後々の人生で結構苦労する、というパターンもままある。
いずれにしても、自分の個性=「自分はどんな人間なのか」という問いかけを改めて見直してみると、そこには意外なほど、どこかから一方的に決めつけられ、パターン化されたステレオタイプ的な見方が幅をきかしていることが多い、と僕は思っている。
それって、本当に個性なんだろうか?
続きを読む【私的告白】最近、ももクロにはまってます
今日は、ちょっとしたカミングアウトから話を始めたい。
最近、僕は、「ももクロ」にはまっている。
あの人気女性アイドルグループ、ももいろクローバーZである。
各自のテーマカラーコスチュームを身にまとい、アクロバティックなダンスをしながら歌いまくる5人組少女である(いや、いまやメンバーの大半が20代になったのでもう少女という形容はそぐわないが、、、でも、雰囲気はいまでもそんな感じだ)。
テレビのレギュラー番組を録画しては繰り返し視聴し、ライブDVDを買い、主演映画のDVDも買い、ファンクラブに入り、この春のドームツアーチケットにも応募した(抽選で外れたけれど・・・)。
いいおっさんが何してるんだか、と思うかもしれない。でもどうやらももクロにはおっさんファンもかなり多いらしい。心強いことだ。
かみさんはあきれている。
「いいおっさんが何してるんだか」と思っているのは想像に難くないが、あきれる理由は多分それだけではない。
僕のこれまでの音楽的志向から考えて、「アイドル音楽」というのは、最も縁遠いものだったはずだから。
自分でも、そう思う。だから正直、驚いている。
続きを読むあなたの自己肯定感を金額にしてください
長らくご無沙汰していました。
「きたむらは生きているのか?」と心配されていた方もいらっしゃるかもしれませんが、どうぞご安心を。めっちゃ元気です。
ここしばらく、いろいろなことがありすぎて、ブログに書くチャンスがなかなか巡ってこなかったんだけど、ここ数日ぐらいで少し、自分が今どういうところにいるのかが、文字にできる形で見えてきた感覚があったので、ちょっと書いてみます。
テーマは「自己肯定感」。このところ自分の周りのものごとの巡り合わせは、おおむねこのテーマに関連して動いてきたように思う。仕事の中身も、カラダ系の学びも。
自己肯定感という言葉は、心理学用語ですね。自分を意義ある(価値ある)存在として受け入れる感覚。
もうちょっと一般的な言葉で言うと、「自信」に近いかな。
ただ、細かいニュアンスはちょっと違うように思う。
続きを読む健康志向は「怖れ」につながる。養生は「畏れ」を養う
二日前に書いた「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の話のキーワードは、「怖れ」だった。
この言葉について書きながら、僕の頭の中では、これと似て非なるもう一つの「おそれ」のことを、なんとなく考えていた。
それは「畏れ」。
どちらも、読みは「おそれ」。たぶん大和言葉の語源は重なるのだろう。
だが今では、かなり違う意味になっている。
歴史的にどこかの時点で、意味の異なる別々の言葉に別れたのだろうね、きっと
「怖れ」は、恐怖を覚えること。「恐れ」もほぼ同じ意味。
自分がなんらかの形で攻撃され、痛い目に合わせられるような可能性を予見し、そんな未来の状況に不安を抱き、おびえ、身を固めて構える、そんな心理を示す言葉だ。
何か強大なものごとにたいして、おびえている様子がうかがえる。
これに対して「畏れ」は、自分より強大な相手に面しているという状況は一緒なのだが、その時に抱く心理は、単純なおびえではない。
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暗闇体験(ダイアログ・イン・ザ・ダーク)と、失敗したくないココロの不思議な関係
ダイアログ・イン・ザ・ダークをご存知だろうか。
自分の手のひらも見えないほどの完璧な暗闇の中に設置されたコースへ、白い杖を持って少人数グループで入り、コース内のいろんな仕掛けを、視覚以外の感覚(聴覚、嗅覚、触覚など)を頼りに進んでいく体験型エンターテインメントだ。
発祥はドイツで、日本初開催は1999年。
当初は期間限定イベントだったが、今は東京・外苑前に常設会場ができた。
コースを案内するのは、アテンドと呼ばれる視覚障害者。
彼らは普段から視覚を使わずに生活しているので、真っ暗闇の中でも、普段となんら変わらずに動き回ることができる。
いわば、暗闇のエキスパート。
・・・と、説明的にいえばこんな感じになるのだけれど、この体験をすることで、自分の中にどんな経験や変化が沸き起こるかは、実際に体験してみなければわからないと思う。
想像がまったくおよばないぐらい、日常のあり方とはかけ離れた状況に遭遇するという意味だ。
僕はこのイベントを、これまでに3回経験している。
最初は2006年。まだ常設化される前のことだ。
その時の感想が、旧ブログに残っていた。
ダイアログ・イン・ザ・ダーク | カラダの語り部、ときどきギタリスト
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フリーランス物書きの働きぶり
フリーランスの物書きとして働く僕には、オフィスというものがない。
同業者には事務所を持っている人もいるが、僕は、あまり興味がない。
まあ、書庫的なスペースと考えれば、あると便利だろうなって思うこともあるけれど、仕事場としての事務所は、いまの自分には、不要な気がしている。
なぜ興味がないかというと、、、たぶん、「いつも同じ場所で執筆する」っていうのが嫌なんだと思う。
パソコンひとつあれば、あとは気分次第でどこでも仕事(執筆)できるのが、この商売のいいところ。
それをわざわざ、一か所の拠点に固定したくない。
確定申告の書類などでは、自宅が職場ってことになっている。
もちろんそれはそれで当たっている。自宅にはかなり大きな書棚とデスクトップパソコンがあり、そこで執筆や作業をすることも多い。
特に、デザイン入稿的な、大テーブルと大ディスプレーが欲しい業務は、なかなか外ではやりにくい。
でも、、、連日ずーっと同じ席にすわっていると、だんだん自分の中の何かが枯れてくる。
だから、枯れきってしまう前に、ラップトップをリュックに入れて外に出る。
まあ、今風の言葉で言えば、ノマドワーカー。
いまの自宅は品川駅のそば。
とても便利なこの界隈だけど、ネットカフェや長時間居座れるチェーン系カフェは、意外と少ない。
だからたいてい、五反田界隈までぶらぶら歩いていく。駅まで20分弱ぐらいかな。
もしくはバスに乗って、目黒界隈に行く。
この2エリアはどちらも、ネットカフェ、チェーンカフェともにかなり充実しているので、たいていこのどちらかに出向くことになる。
だいたい2〜3時間おきに場所を変える。昼過ぎに家を出たとして、夕方までなら2カ所。深夜まで粘るなら3カ所ぐらいはしごする感じ。
五反田辺りは、カフェがいい感じに点在している。1カ所で2時間ぐらい執筆して、そろそろ頭が飽和してきたと思ったら外に出る。そして5分ぐらい歩いて少しほぐれてきた頃に、ちょうど次のカフェに着く。
もっと頭が飽和した時には、目黒〜五反田間ぐらいを歩く。
今日はそんな感じだった。バスで目黒に行って、五反田まで歩いて、そのあとは歩いて自宅に帰ってきた。
まあつまり・・・それだけ執筆が飽和してたってことですが・・(苦笑)
なかなかスイッチが入らない時は、新しい環境を求めていろいろさまよい歩くことも多い。
いつもの五反田方面ではなくて、反対に向かって歩いてみたり。
逆向きの電車に乗ってみることもある。それで、過去にあまり降りたことがない駅で降りてみる。
(そういえば、そんな感じのテレビ深夜番組があったな。出勤するサラリーマンを「逆向きの電車に乗ってみませんか」ってそそのかすやつ。あれはオフィスがあるサラリーマンだから夢のある話なのであって、僕にとっては日常だ)
それで、新たな居座り場所を見つけることもある。
でも、単に時間の浪費だけに終わることもある。
でもそれはそれ、スイッチを入れるための段取りみたいなものだ。
物を書くという仕事は、工場で製品を作るようにはなかなかいかない。
時間を投下すればそれだけプロダクトが生産できる、というタイプの業務ではないのだ。
もちろん、自分の中ではそんなふうに計算しているところもある。「あの記事なら◯時間で書き上がるだろう」とか。
でも実際は、計算通りにならないこともかなり多い。
だから、仕事をする上で、自分の最大の関心事は、「どんな環境を準備すれば、自分の中のスイッチが入りやすいだろうか」という一点に、ほぼ常に集約される。
スイッチさえ入れば、どんな大変な仕事でも、たいていはなんとかなるものだ。
そのためには、オフィスより大事なことがあるようだ。
そういえば会社員時代は我慢ばかりしていた
僕が会社を辞めたのは、2009年。あれからもう6年になる。
フリーランスとしての暮らしも、すっかり身についた、と思う。
ときおり、取材や打ち合わせが朝になったとき、ラッシュアワーの電車に乗り合わせると、以前の生活を思い出す。
あー自分もこういう暮らしを毎日やってたなぁ、なんて思う。
「ラッシュアワーの通勤」っていうのは、会社員時代の象徴的な姿。いまの僕にはそう思える。
つらいことを「我慢する姿」だ。
そんなふうに思ってしまうほど、会社員だったときの自分は、いろんなことを我慢していた。
新入社員のころ、とある会社の先輩が、「サラリーマンの給料は、我慢料」って言ってたけど、本当にそうだと思う。
いや、当時の僕はそれを我慢だとは思っていなかったんだな。
あのころはたぶん、「努力」だと思っていた。あるいは、きちんとした大人ならみんなこなすべき「義務」みたいな感じ。
でも、今になって思い返せば、あれは全部、我慢。しんどい状況をがんばってふんばってひたすら耐える行為。
我慢することでパフォーマンスが向上するのであれば、我慢にも意味がある、といえる。
だが、何をするにしても、良いパフォーマンスのために必要なのは、歯をくいしばることではない。むしろ緊張を除き、心身を快適なリラックス状態に置くことが、とても重要。
当時はいつも力んでいたから、それが自分の平常状態だと思って、力んでいることに気づかなかったのだろう。
「我慢」という態度は、表立った反発や抵抗はしないで耐えることを意味する。
でも、力んで緊張した体では、ものごとを本当の意味でやり過ごすことができない。
形の上では何も抵抗していないように見えるが、実は、対峙してくるものに対して身を固め、ガツンガツンとぶつかっている。
ぶつかるだけでは、何も変化しないし、何も生み出さない。でも、内面ではものすごく消耗する。ストレスや不満もたまる。機嫌が悪くなる。当然、体調も悪くなる。
「クリエイティブ」という状態とは、真逆だ。
なんであんなに我慢ばっかりしてたんだろう?
まあ、組織の問題と、自分の問題、両方あったのだろう。
組織の問題というのは、マネージメントの方向性のことだ。組織構成員の力を引き出し、開花させようとするのか、それとも抑圧して管理・支配しようとするのか。
会社員時代、僕が出会った個別の上司の中には、前者的な考え方を持っている人もたくさんいた。これは本当にラッキーなことだったと思う。
にも関わらず、組織全体の空気はなぜか、抑圧的なものにしか思えなかった。
ただ、そういう組織の問題も、自分の振る舞い次第で緩和させる道があったはずなのである。
そう考えれば、基本的にはすべて、自分の問題だ。
組織の中での身の処し方として、何かしらの圧迫感を感じたとき、「ガードを固めて頑なになる」というやり方しか知らなかった、自分の問題。
もっといえば、自分がそういう振る舞いしかできなかったから、組織の空気が抑圧的なものにしか感じられなかったのかもしれない。
ラッシュアワーの中で、身を固めて、肩肘を張って、足を踏ん張って、周りからの圧力に抵抗する、そんな姿に似ている。
「満員電車でも、体の力を抜いて、揺れに身を任せて、天上の心地よい空気と繋がってるようなイメージでゆったり呼吸していれば、いくらでもリラックスできるよ」。
あるヨガの先生が以前、こんなふうにおっしゃっていたけれど。
そういうことが本当にできるって気づいたのは、会社を辞めてずっと時間がたった、ごく最近のことだ。
だから今もし組織の中に戻ったら、以前よりはまともな振る舞い方ができるのかも、って思うこともある。
まあ、戻りたいとは思わないけどね(笑)