あなたの自己肯定感を金額にしてください
長らくご無沙汰していました。
「きたむらは生きているのか?」と心配されていた方もいらっしゃるかもしれませんが、どうぞご安心を。めっちゃ元気です。
ここしばらく、いろいろなことがありすぎて、ブログに書くチャンスがなかなか巡ってこなかったんだけど、ここ数日ぐらいで少し、自分が今どういうところにいるのかが、文字にできる形で見えてきた感覚があったので、ちょっと書いてみます。
テーマは「自己肯定感」。このところ自分の周りのものごとの巡り合わせは、おおむねこのテーマに関連して動いてきたように思う。仕事の中身も、カラダ系の学びも。
自己肯定感という言葉は、心理学用語ですね。自分を意義ある(価値ある)存在として受け入れる感覚。
もうちょっと一般的な言葉で言うと、「自信」に近いかな。
ただ、細かいニュアンスはちょっと違うように思う。
「自信」という言葉は主に、「自分の能力や資質、実績などに対する信頼」という意味で使われる。
「体力には自信がある」「今日のテストは自信がある」「要領のよさなら自信がある」等々・・・
どれも、「私には、◯◯ができる」というような意味だ。
自分に自信を持つのは、生きていく上でとても大事なことだろう。
だけど、その拠り所が「私には、◯◯ができる」というスタイルだった場合、その◯◯ができなくなった時に、自分の存在意義(生きている意味)が瓦解するというリスクが避けられない。
例えば体力への信頼が自分の拠り所だった場合、年をとって体力が落ちてきたら自信がなくなる。
学業成績の良さに拠っていた場合は、試験でミスをするとものすごく凹む。あるいは、もっと成績のいい人に出会って自分を惨めに感じたり。
これに対して「自己肯定感」は、能力ではなく、「自分の存在価値に対する信頼」という意味。
「生きて、そこにいるだけで価値があるよ」と、自分を認める感覚のこと。
・・・・と、こういうことは、以前からしばしば考えていたのだけれど。
最近、ある友人からこんな話を聞いた。
「自分が、寝たきりとか、そんな状態になって、全く働けなくて、人に頼って生きるしかなくなったときに、毎月どのくらいの給料をもらうのがふさわしいと思う?」
へ? 寝たきりで、給料?
僕は、正直、答えに詰まってしまった。「なにそれ?意味不明・・・??」って感じで。
まあ、言葉としては社会保障的な手当と呼んでもいいですけど。
いずれにせよ、そんな状況でいただくに相当だと思う金額をイメージしてみて、ってことで。
で、、、、そこでイメージされる金額が、数値化された自分の「自己肯定感」になる、と。
うーむ、なるほど、って、うなったね。
「存在しているだけで価値がある」って、言葉としては美しい表現だけど、それを金額にせよと迫られると、いきなり詰まる。
これは、自己肯定感という概念は知ってるけど実感を伴っていないってことだろう。
じゃあ、というわけで、なんらかの数字を出してみよう。
例えば「月10万円」というメンタリティーと、「月100万円」というメンタリティーはずいぶん違う。
日本人的な謙虚さの美徳から言えば、「月10万円」の方が(あるいは「そんなもの、おいくらでもいただけるだけで有難いです」みたいな言い方をする方が)好感度が高いだろう。
僕も、個人的な嗜好で言えば、100万円と言い放つ人とは友達になりにくいかも?とも思う。
だけど、その「謙虚」という美しい言葉の裏側に、自分の価値を無意識のうちに貶め、自己肯定感を損なうカラクリが潜んでいる。
それが、数値化というある意味乱暴な手段をとることで、見えやすくなる。
なんで「月100万円」と言っちゃいけないの?
そこで「謙虚」になることが、自分の価値や可能性を、自分で低めている。
昔の首相が言ってたじゃん。「人の命は地球より重い」って。
だったら「月1億円」って言ったって悪くないはずだ。
ただ、、、そこで「一億」とか「無限大」とか、そういう言葉を持ち出すと、これまた実感を伴ないにくい抽象概念の世界へ逃げ込みやすくなるんだな。
自分の生活実感としては、「月100万円」ぐらいが、かなりリアリティーがある。
「えーそんなの許されるの?」っていう気分が、一番強く出る水準。
(これは、その人の育った環境とかいろんな要素によってずいぶん違うでしょう。たぶん僕の頭の中でリアルにイメージできる「大金」という概念は、100万円ぐらいからなんだと思う)
それを、「いやいや、存在しているだけで価値があるんだから当然だよ」って唱えてみる。
それを当然と感じるメンタリティーをイメージしてみる。
こういうことが、自己肯定感という概念をリアリティのあるところへ引き寄せるってことなのかな、、なんて最近思ってます。