【ももクロ考その2】アドラー心理学とももクロの意外な結びつき
「ももクロは各自の個性を大事にする」って何気なく書いたけれど、「個性」って、真面目に考えるとなかなか難しい概念だ。
みなさんは、自分の「個性」がどんなものなのかを、どうやって自覚するだろう。
よくあるのは、子供のころから親や先生に「あんたはいっつも元気だね」とか、「馬鹿正直だけが取り柄だね」みたいな感じで言われて育ち、自分でもそういう人間だと思っている、みたいなストーリー。
それが前向き評価ならまだいいけど、「ほんと、トロい子だねあんたは」みたいなネガティブ評価をいつも投げかけられて育つと、自分はそういうダメな存在なんだ、といった自己評価が根付いてしまって、後々の人生で結構苦労する、というパターンもままある。
いずれにしても、自分の個性=「自分はどんな人間なのか」という問いかけを改めて見直してみると、そこには意外なほど、どこかから一方的に決めつけられ、パターン化されたステレオタイプ的な見方が幅をきかしていることが多い、と僕は思っている。
それって、本当に個性なんだろうか?
まあ、親や先生の目から見て自分が何がしかのキャラに見えていたのであれば、それは自分の一面を示しているのかもしれない。でも、それははたして、自分の全人格の性質を、余すところなく言い当てているだろうか?
同じ相手と長期的な関係を結んでいると(家族、学校、職場など)、互いの見方や役どころがステレオタイプ化する、というのは、よくあることだ。
そしてステレオタイプが強固になるほど、それは一種の足かせとして、自分の中のほかの可能性を制限する作用を持つ。いったん定着した「個性」という名前の枠組みが、さらなる個性の発現を抑えてしまうわけだ。
ももクロのシステムも、各自のカラーを固定しているという意味では、そういう関係性に陥る可能性をはらんでいる。
ただ、このグループのすごいところは、そんなふうに固定化しかねない「個性」という枠組みを流動化・活性化すべく、内部においても外に対しても、常に新たなる活動の場を求めていることだ。
外向きで言えば、いわゆる「異種格闘技」的な活動。
たとえばプロレスラーとコラボしたイベントがあった。そこではイベント会場にリングを設営し、本物のレスラーたちが肉体をぶつけ合うその場に彼女たちを放り込み、レスラー相手に技をかけたりしていた(さすがに本気で技をかけられたら体が粉々になるだろうけど)。
政治学者の人と対談したこともある。桃神祭という夏のイベントでは、全国各地の祭りで披露されるさまざまな古典芸能の人たちが集まって、ももクロと共演していた。
坂崎さんとやっている「ももいろフォーク村」も、異種格闘技的な場といえる。そこにはゲストとして、往年の大物フォークシンガーやロックギタリスト、ブルースシンガーなどがやってくる。なんといっても憂歌団の木村充揮と内田勘太郎が来たのだから驚きだ(木村は大のももクロファンだそうだ)。
そんな異分野の人たちとガチでぶつかることで、自分の中から、意外な新しい性質(可能性)が湧いてくる。
多分だれでも、人生のどこかで、そんな経験をしたことがあると思う。
同様の作用は、グループ内でも起きる。ももクロは5人グループだが、内部で2人ないし3人のユニットを作って歌うことがある。百田夏菜子×玉井詩織の「ももたまい」や、高城れに×有安杏果の「推され隊」は、自分たちの持ち歌もある半恒常的なユニット。加えて「ももいろフォーク村」などの場では、曲によって様々な組み合わせの臨時ユニットができる。
まあ、5人から2人組を任意に選ぶやり方は、計算上、10組あるわけだからかなり多彩だ。同様に3人組も10組できる。(どんな計算をしたかは各自考えてね~笑)
組み合わせを変えることで、そこに現れる各人の姿は微妙に変化する。ももたまいで歌う夏菜子は、詩織とまるで仲のいい2匹の子犬のようにじゃれあってはしゃぐ姿を見せるが、同い年で抜群の歌唱力を持つ有安杏果と組むときは、表情が微妙に引き締まり、シンガー夏菜子の本気スイッチが入る。
いや、詩織とでは本気じゃないという意味ではない。コラボする相手によって、自分の中の違う面が自然に引き出されるのだ。
個性とは、そんなさまざまな面の集合体を指すのだと僕は思う。だからそれは常に流動的で、変幻自在。しかも関係性の中で引き出され、成長していくものだ。
そんな「変化し続ける姿」を世にさらし、丸ごとエンターテインメントにしてしまったのが、ももクロ。
古典的な「アイドル」という枠で捉えるなら、「プロレスとのコラボだなんてももクロは何をしようとしてるんだ?」っていう話になるのだけれど、枠を越えて成長することが、ももクロのアイデンティティーなのである。
だから、「ももクロは各自の個性を大事にする」という昨日の話は、一人一人を個別に切り離して箱入り娘のように育てるという意味ではない。むしろ、外でも内でもさまざまな接触(関係性)を意図的に設定することで、さまざまな可能性を引き出すというアクションにつながるのが、必然的といえる。
さて、ここでひとつ押さえておきたいポイントがある。
「さまざまな関係性を通じて新たな可能性が湧いてくる」と書いたけれど、そうなるためには、大事な条件がある。
接触する「異種」の相手に対して、自分の姿勢が「開いて」いることだ。
唐突だが、ここでちょっとアドラー心理学の話をしよう。
アドラー心理学の核心的な概念として、「共同体感覚」というものがある。
これ、いかにも日本語としてこなれない用語で、翻訳するときも苦労したのだろうと思うのだけれど、、、うんと日常的な言葉に寄せて意訳(超訳)するなら、「世の中の人はたいてい自分に対して好意的だ、という確信」ぐらいの意味になるだろう。
メンタルのお話をするときによく出てくる、こんなたとえ話がある。
「コップに水が半分入っているのを見て、ある人は「まだ半分ある」と思い、別の人は「もう半分しかない」と思う」。もちろん、自然に「まだ半分ある」と思える人の方が、幸せになりやすい。
これを人間関係の話に当てはめると、たとえばこんなふうになるだろう。
「世の中の半分の人が自分に好意的で、あとの半分は敵対的だとする。そんな状況を、「多くの人は好意的だ」と捉える人と、「多くの人は敵対的だ」と捉える人がいる」。
相手を「好意的」と捉えれば、構えることなく心を開くことができる。すると交流が進み、その関係性の中から、自分の新たな可能性が見えてくるところにも進みやすい。
でも、相手を「敵対的」と捉えれば、だれでも自分を守るために身も心も閉ざす。そうなれば交流にならないし、可能性の発見や、成長も難しいだろう。
前者の「多くの人が好意的」と捉えるのが、共同体感覚を身につけている人。そして、そういう人の方が幸せになりやすいと、アドラーさんは言っているわけだ。
、、、こう書くと、「じゃあ好意的にとらえればいいのね」なんて思うかもしれない。でも異分野の人との交流は、基本的に未知との遭遇だから、まず「敵かもしれない」と警戒して自分を閉ざす態度をとる方が、生き物として自然なのである。
なぜなら、知らない相手に無防備の自分を晒すことは、下手をすると自分の命に関わるリスクを孕んでいるから。野生の世界ではまず自分の生存を守ることが最優先なので、相手が敵か味方か分からないときはとりあえず敵とみなして対応する方が、理にかなっている。そのためあらゆる動物は(人間も含め)、未知の対象と接触したときはたいていまず警戒する性質を、本能的に身につけている。
個体の生存を最優先に考えるなら、そうなるのが当然なのだ。
でも人間は、「パンのみで生きるにあらず」というややこしい生き物だ。周囲の人をみな敵とみなして防御壁を作り、その内側にこもって命を長らえたとしても、それだけではハッピーになれない。
人との関係の中で交流し、成長することで、充実感や納得感が得られる、そんなちょっと複雑な心を持っている。
生存本能と、交流願望の間で、葛藤が生じうるわけだ。
そこで多くの人は、人生の中で自分なりに、「この辺のバランスが生きやすいな」という生存本能と交流願望のバランス点を身につけている。たいていは、ちょっと生存寄り(防衛寄り)に傾いたあたりに落ち着いていることが多いだろう(僕の観察による経験則)。
それを、もうすこし交流寄りに動かす(周りを好意的とみなす)方法を教えてくれるのが、アドラー心理学。
そして、交流寄りのところで生きるとこんなに元気が出るんだぜい!という姿を見せつけてくれるのが、ももクロだと、僕は思うのだ。
交流(関係性)を通じて、自分の中の未知の可能性(個性)が開花する。
そうやって自分も知らなかった自分のポテンシャルを実感し、驚き、内なる力を信じる。これが自己肯定感だ。
と同時に、周りに対しては「ありがとう」という気持ちが湧いてくる。
人が成長するというのは、そういうことだろう。
フジテレビ系のCSチャンネルで、「私の音楽」という歌番組がある。先日そこにももクロが出演し、彼女たちのライブの音楽監督を務める武部聡志氏と対談していた。
その中で武部氏が5人に対して、「ももクロの魅力ってなんだと思う?」という問いを投げかけた。
5人の答えはそれぞれ味わいがあって面白かったのだけれど、なかでもうなるコメントをしたのが、夏菜子。この人、普段はおバカキャラで通っているが、時おりとてつもなく切れる名言を吐く。
夏菜子の見解では、ももクロの魅力は、「未完成さ」にあるという。
未完成は、ただの未熟とは違う。完成へ向かう成長を予感させるから、未完成なのだ。
今を越えていったその向こうに、もっと凄いものがあるという予感。
完成形のエンターテインメントといえば、例えばディズニーランドのようなものを思い浮かべればいい。
全てが計算し尽くされ、一分の隙もないほどの楽しさや幸福感で埋め尽くされた、夢の空間。
現実に疲れた時、ひととき夢のなかで遊ぶ。ときにはそんな時間もいいだろう。
でもそれはどこまでも、ひとときの夢だ。
ももクロが放つ「未完成さ」は、成長の予感を通じて、現実を生きる力を与えてくれる。
たぶんそれが、多くの人に支持される理由なのではないかと思うのだ。
そしてこれは、アドラー心理学のもう一つのキーワード=「勇気づけ」とも関わっている。
その話はまた次回に。
仕事の執筆もしなきゃいけないので(笑)、次回はちょっと先になるかも。