【ももクロ考その13】天才・百田夏菜子が、朝ドラで身につけたもの(後半)
前回の記事は、タイトルに「夏菜子が朝ドラで身につけたもの」とうたっておきながら、朝ドラの話にはほとんど入らないうちに、時間切れで終わってしまった。すまん。
では、、さっそく続きを。長い話になりそうですが、どうぞお付き合いください。
「前半」の記事から繋がって完結するお話なので、もしどこかの検索サイトからこのページへ直接飛んできた人がいたら、お手数ですが、上のリンクから一旦、前回の記事に戻って、はじめから読んでください。
じゃないと、たぶん意味が繋がらないので。
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夏菜子ちゃんの変化と、朝ドラをつなげて考えるのには、訳がある。
「ももいろフォーク村」を欠かさずウオッチしてきた立場から見て、夏菜子ちゃんの歌が「音楽と向き合う」方向へはっきりと舵を切り始めた(ように感じられた)タイミングと、朝ドラに出演していたタイミングは、だいたい合致している。
この時期、テレビを通じて伝わってくる「ももいろフォーク村」のスタジオの空気には、「朝ドラで忙しい夏菜子ちゃんの負担を軽くしよう」という意図が、かなりはっきり現れていたように思う。
負担軽減のため、新しい、難しい曲へのチャレンジを少なめにし、既存のソロ曲や、本人がすでに知ってる曲をなるべく割り当てよう、と、そんな配慮をしていたのかもしれない。
また、現実問題として夏菜子ちゃんは、撮影のため連日大阪にいただろうだから、新しい曲に取り組もうにも、そのための打ち合わせなどをする機会があまり取れなかった、という事情も考えられる。
いずれにしても、歌唱面のレッスンやボイトレ指導は、この間、おそらくあまりできなかっただろう。
、、、というそんな状況の中で、夏菜子ちゃんの歌い方に、変化が現れてきた。
であれば、その変化は、歌のレッスンを通じてもたらされたというより、ドラマ出演を通じて夏菜子ちゃんが何かを感得し、それが歌の表現にも現れるようになった、と考えるほうが自然だろう。
では、何を感得したのか?
僕は、テレビドラマの撮影など関わったことのない素人ではあるが、一つ思い当たることがある。まず、その話をしたい。
ドラマ撮影という作業は、ざっくり言ってしまえば、「演技をする」→「映像を見る」→「演技をする」→「映像を見る」→「演技をする」→・・・の繰り返しだろう。
ここで注目は、「演技」だけではなく、その合間に「映像を見る」のステップが入ること。これがなかなか、いい仕事をしたんじゃないか、ということなのだ。
僕は実は、これと似たプロセスとして、音楽の作品作りにおいて、「録音」→「チェック」→「録音」→「チェック」・・・というやり方を積み重ねて、楽曲の製作をしたことがある。
もう10年以上前。僕は、ギターのインスト作品を集めたインディーズ・オムニバスCD「アコースティックブレス」シリーズに、自分の演奏を数曲、収録してもらった。
当時はまだ会社員だったのだが、市販の音楽CDに収録できるレベルの作品を仕上げるべく、、
帰宅すると毎晩のように自宅の一室にしつらえた録音スペースにこもり、DATレコーダーを回して自作曲を録音。聞き返して演奏を振り返り、また録音する・・・ということを、意図的に繰り返した。
一番最初に収録してもらった曲では、納得する1テイクを録るために、このプロセスを1か月以上にわたって繰り返した。たった1曲の録音に、である。
結果、、、その期間で、僕のギターの演奏技術は飛躍的に向上した。
いや、「技術」というより、「表現力」という方がより正確かもしれない。
奏でる音の隅々にまで感覚を巡らすような感じで、かなり繊細な表現ができるようになっていったのである(まあ、もちろん、それ以前の自分と比べれば繊細になった、という意味ですよ)。
なぜこんなことをやったのかというと、、
CD収録のチャンスをもらい、とりあえず最初に、自分の演奏をざっと録音してみたときのこと。
聴き返して、唖然としたのだ。
聞こえてきた音が、演奏中に頭の中で流れている自分のイメージとは、かなり乖離していたから。
まあ、、単にイメージ通りに弾けないだけなら、要は技量不足という話なのだが。
ここで問題は、「イメージ通りに弾けていないことに、演奏中、気づいていない」という点だ。
そう、当初の僕は、ギターを弾いている最中、自分の演奏の音を、まともに聞いていなかったのである。
自分の意識はむしろ、頭の中に流れる、妄想的に作り上げた楽曲イメージのほうを向き、そちらを追いかけていたのだ。
たとえば、何か情感を込めてキューンとうなるような感じの音を出す(出したい)フレーズがあるとする。
そのとき、自分の頭の中では、その情感が乗っかった「キューン」という理想的(妄想的)な響き(のイメージ)が鳴り響いている。
そして、弦を弾いたときの指の感触と、頭の中の「キューン」が繋がって、“気持ちよく音を出している感じ”(自己陶酔感)が形成される。
脳内でイメージしながら音を鳴らすのは、もちろん、悪いことではない。
むしろ、いい演奏をするためには、必要な要素であろう。
でも、自分の注意力がその「脳内サウンド」ばかりに向いてしまって、現実のギターから発せられるリアルな音にほとんど向いていないとすれば、、大きな問題であろう。
それで、、、こりゃなんとかしなきゃ、って思って、、とりいそぎ、録音しては聞き返す、という作業を何度も、繰り返してみた。
すると、、そのうち、実際の音を注意深く聞くという意識が芽生えてきたのだろう、徐々に、演奏中に、自分の音が“聞こえる”ようになってきた。
そのときの感覚を言葉で表現するなら、「耳が開く」ような感じ、である。
ああ、いままで本当に、ろくに音を聞かずに弾いてたんだな。
聞こえるようになってみて、そのことがしみじみと、わかった。
また、このプロジェクトには、プロレベルのギタリストがプロデューサーとして関わっており、最初の曲の収録時は、とりあえず録音したものを聞いてもらう機会があった。
そのときの返信の中に、「構成音の音のバランスをいろいろ変えることで、曲の表情を変化させられる」という指摘があった。
たとえば、主旋律と副旋律が平行に動くようなフレーズがあるとしよう。
主旋律は中指で弾き、副旋律は人差し指で弾くとする。
そんなフレーズが、曲の中で何回か繰り返し出てくる。
このとき、2つの旋律の音量バランスや音色を少しずつ変化させると、同じフレーズでも単調にならず、むしろ、曲調をダイナミックに変化させる方法として、使える、、と。
僕はそれまで、そんなこと考えてギターを弾いたことなど、なかった。
意識のほとんどは、「音が合っているか」=正しいポジションを押さえられているかどうか、ばかりを気にしていた。
で、、言われたように、「主旋律と副旋律のバランス」ということを考えながら弾いてみると、、、
必然的に、自分の指先のタッチに、意識を向けることになる。
弦を弾く瞬間の人差し指と中指の感触を、それぞれ独立に感じ取ろうとするわけだ。
最初は、こりゃあ雲をつかむような話だ、、と思ったのだが、、、
いろいろやっているうちに、だんだん、ぼんやりした雲の中に埋もれていた、指先の感触が、じわじわと感じられるようになってきた。
これは、「指の感覚が開く」ような感じ、である。
で、、こっちの感覚が開けてくると、
「こんな感触で弾いた時はこんな音」というぐあいに、「指の感触」と、「音の質感」のつながりが、実感としてわかるようになってくるのだ。
すると、「中指のほうを太い音で響かせるから、指の角度をちょっと立てよう」とか、「2回目の繰り返しでは、今度は人差し指の方を響かせてみよう」とか、そんなことを、演奏中にピピっと感じられるようになっていくのである。
なるほど〜、うまい人はこういうことを感じ取りながら弾いてるのかぁ、って。
こりゃあ、おもしろい。
新しい世界が開けたような、とても新鮮な気分だった。
と、、そんなことを積み重ねていくうちに、、自分の演奏技術というか、とくに表現力の部分が、自分でも驚くほど高まっていたのである。
こうなれば、いかにも素人感が漂う「頑張りました、はい、よくできました」みたいな音ではなくて、「聞かせる音」「聴き手を引き込むような音」という感じの演奏になってくる。
最終的に仕上がったテイクは、自分の演奏なのに、録音を聴きながら、めっちゃ感動した。
・・・さーて、いかがだろう。
当時、僕に起きたのと同類の現象が、朝ドラの撮影に連日、取り組んでいた夏菜子の身の上に起きたとは、考えられないだろうか。
ドラマなどで行われる「演じる」という表現が、身体的な実感としてどんな感じのものなのかは、僕にはわからない。
でも、もし自分がなんらかの演技的なことをして、それをカメラで撮って見せられたら、「どっひゃー、こんな動作してたのか」って、きっと驚くと思う。
動作や発声、表情など、自分の身体が行った「表現」が、客観的にどんなものとして外に現れているのか。
これは本来、自分ではわからないものだ。
録音や撮影といった手段でフィードバック情報をもらって初めて、他人が見聞きするのと同じものに触れることができる。
そうしたフィードバック作業を通じて、自分の動作や発声、呼吸などを感じ取る「感覚センサー」が繊細になっていくのは、十分にありえることだと思うのだ。
さて、、ここでちょっと、話題の方向を変えよう。
何か体を動かす動作、例えば野球のバッティング動作を想像してほしい。
このスイング動作を成立させるために、体の中では、どんな器官が働いているだろう?
まず思いつくのは「筋肉」だろう。
はい、その通り。体の動きを直接司っているのは、筋肉。
では、筋肉に指令を出しているのは?
答えは、「脳」。
そして、脳→筋肉という指令を伝えるのが、「運動神経」。
・・・と、たぶんこの辺までは、たいていの人がすんなりイメージできると思う。
でも、これだけではまだ片手落ちだ。
素振りでビュッとを振るだけなら、脳→筋肉の経路だけでもビュンビュン振り回せる。
でも、ボールを正確に打つためには、それだけでは、足りない。
もう一つ、重要な要素がある。
先ほどから話題の、「感覚センサー」だ。
バットスイングの場合なら、、、
ボールの軌道やスピードを見定める視覚器官(目)。
自分の体の動き(筋肉の収縮状態)を感じる、筋肉の中の感覚器(筋紡錘)。
体の姿勢バランスなどを感知する、耳の奥の半規管。
グリップの感触を通じて、バットの現在地などを感じる、手のひらの触覚。
トップ選手なら、ボールの回転方向(球種)を察知するために、聴覚(耳)も動員しているかもしれない。
こんなさまざまな感覚情報をふまえて、脳は、どんなスイングをすればいいかを瞬時にはじき出し、運動神経に伝える。
だから、ボールを正確に打ち返すことができる。
つまり、運動とは、「感覚器官(センサー)」と「運動器官」の協調作用なのである。
この協調がうまくいくほど、運動の精度やスムーズさが高まり、質の高い動きが実現されるのだ。
このへんでもう一度、話を夏菜子ちゃんに戻そう。
「ヘタだけど、心を打つ」。
こういう感じのパフォーマンスは、「ボールが当たるかどうかをあまり気にせずに振り回すバットスイング」に例えると、理解しやすいと思う。
(まあ、ちょっと乱暴な喩えなのは承知しているが、ここはひとまず、そういうものとして捉えてみてほしい)
野球でいうなら、「ホームランか、三振か」というバッターがいるだろう。あんな感じだ。
細かい結果を気にせず、自分がやりたいように、自由奔放にスイングする。
ある意味、とても爽快だ。
そして、そういう選手はたいてい、人気者である。
夏菜子のパフォーマンスが人の心を揺り動かす理由の一つは、この「ホームランか三振か」的な、潔さ、豪放さにあるのではないか。
僕は、そう思っている。
歌の音程や譜割りといった細かいことは気にせず、ビュンビュン素振りをするように、バンと張りのある声を放ち、叫ぶ。
内なる情動と連動した声とダンスが、ためらいなく、てらいなく、まっしぐらに放たれる。
聴き手の魂を揺さぶらないはずがない。
ただ、、、「ホームランか三振か」の選手が首位打者にはなれないように、、、こういう性質のパフォーマンスでは、「ヘタだけど心を打つ」の域を脱することは難しい。
どこに問題があるのか、といえば、、、そう、もう、お分かりだと思う。
感覚センサーが、うまく働いていないのだ。
かつて何度も三冠王をとり、「史上最強のバッター」とうたわれた落合博満は、毎年シーズン前のキャンプで、独特な練習をしていたという。
バットを持たずに打席に入り、ピッチャーの投げる球を、見る。
スイングはせず、ひたすら、見る。
本人曰く「まず目を作る」のだそうだ。
目、つまり、センサーだ。
落合にとって、シーズンの最初に行うべき肉体の準備は、筋肉強化でもスイング固めでもなく、感覚器の準備だったのだ。
そんな、センサーを重視する発想で野球をしていた落合は、三冠王に三度、輝いている。
「ホームランか三振か」ではなく、「ホームランも、打率も」という打者だったのである。
これは、とても重要な話だと思う。
ところが、、だ。
スポーツであれ、音楽表現であれ、「ヘタ」という状況を脱したいと考えた人が何をするか、と想像してみると、、
そこで「センサー」を意識する人は、たぶん、ほとんどいない。
たいていは、やたらと素振りを繰り返すとか、腹筋運動を毎日1000回するとか、そういう方向の猛練習を始める。
音楽であれば、「鬼のスケール練習」とか、そんな感じのことだ。
要は、肉体強化とか、「運動神経」側の刺激とか、そっちばかりなんだよね。
そういうトレーニングばかりをすると、多くの場合、肉体が固まり、動きの柔軟性が失われる。
自由奔放にやっていれは、まだ「ホームランか三振か」という愛されキャラでいられただろうに、ヘタなトレーニングで体を固めてしまうと、いずれ怪我を繰り返して選手生命が縮んでしまう。
そんな残念なケースは、スポーツ界にいくらでもある(最終的に薬物問題で逮捕にまで至ったK原さんとか、ね)。
ここで、前回の記事の最後の方に書いたことを思い出してほしい。
「音程を外さずに“うまく”歌う」ということを目指すと、夏菜子ちゃんの魅力が消えてしまうのではないか、という危惧について書いた部分だ。
この危惧は、ある意味、的を得ていると思う。
素振り1000回、筋トレ一辺倒的なヘタなトレーニングをすると、夏菜子ちゃんの愛すべきキャラは、きっとかき消されてしまうだろう。
それだったら、「ホームランか三振か」のままでいる方が、よほどいいよね。
ただし、「ホームランか三振か」が愛されるのは、若いうちだけだったりする、という現実もある。
(ましてアイドル界においては、、、「ヘタだけど心を打つ」の賞味期限は、野球選手のそれよりさらに短いかもしれないね)
だから、多くの選手が、なんとかこの境地を脱してうまくなろうとして、、、落とし穴にはまる。
幸いなことに、、、と言っていいと思うのだけど、夏菜子ちゃんを(そしてももクロを)取り巻く現在の環境は、たぶん、「筋トレ一辺倒」の方向へは進んでいない。
むしろ、期せずして、感覚器を開く方向へ進んでいるように見える。今のところは、ね。
それは、、この記事では「朝ドラ収録の現場で、感覚センサーが刺激された」という文脈で話を展開したけれど、、もちろん、それだけではなくて、、、
ライブのバックに生バンド(ダウンタウンももクロバンド)が入っていることや、ももいろフォーク村という生演奏の番組にレギュラー出演していることも、センサー機能の底上げの大いに寄与しているはずだ。
そう、実際には、そういう環境下でセンサーがかなり開発されてきたという下地の上で、、たまたま「朝ドラ出演」が最後の一押しとなって、、夏菜子ちゃんの今の成長ぶりがある、ということだと思う。
だから、夏菜子ちゃんの歌が「うまくなってきた」という現状を、僕は基本、肯定的に受け止めています。
ぜひ、アイドル界の三冠王、「ホームランも打率も」の境地を目指して欲しい。
で、、そのためには実は、なまじ「うまく歌おう」的な発想を持たないことが、とても大事だと思うのだ。
というのも、、身体のセンサーってたいてい、無意識のうちに働くときが、もっとも調子がいいのですよ。
ここは、とても微妙な話なので、言葉でうまく説明するのは難しいんだけど、、、
10年以上前かな、一世を風靡した「Wii Fit」っていうゲームを覚えているだろうか?
体重計のような形をした装置の上に乗り、重心位置を前後左右に動かしてゲームを操作するという斬新な発想が、とても面白かった。
たとえばあのゲームのような装置を使って、目の前のテレビ画面に、自分の重心位置を表示させたとしよう。
画面に映る重心点(ドット)は、前後左右へと微妙に揺れ動く。
それを、なるべく真ん中の狭い範囲内に収めておくゲームだと思って欲しい。
このとき、、画面を目で注視しながら体の動きをコントロールしようとすると、このゲームは格段に難しくなる。意識するほど体はかえって緊張し、グラグラと揺れてしまうのだ。
でも、画面から目線を外して、静かにゆったりと呼吸でもしながら普通に立っていると、、、重心位置は自然に中心へ収まっていく。
ヘタに考えず、コントロールしようとせず、カラダにお任せしてしまう方が、センサーがうまく働く。すると、姿勢が安定するのである。
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夏菜子ちゃんには、今の「天才」っぷりをキープしたまま、歌も、演技も、うまくなってほしい。
これは、頭で考えたら、なかなかな難問に思えてしまうだろう。
考えるから、難しそうに思えるのだ。
素直に、自由に、体が発する直感や衝動を大切にしていけばいいのだ。
天才・百田夏菜子なら、きっとできると思う。