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「好きなこと」と「得意なこと」の境目

最近、「好き」と「得意」の違いについてよく考えている。

 

「好きなこと」と「得意なこと」は、現実には、かなり重なり合っているものだろう。

「好きこそものの上手なれ」なんてことわざにもあるように、好きなことは誰だって時を忘れて取り組むので、結果的に上手、つまり「得意」になる、というわけだ。

 

でも、、それは結果として重なるという意味であり、両者は本来、全く別物だ。

 

「好き」っていうのは、自発的に湧き出る性質。対象はなんでもいいんだけど、無条件に、ひたすらその対象のことを好ましく感じて、ずっとそばにいたいとか、その行為を続けていたいとか、そんなふうに感じる。どこまでも主観的なステイトメントだ。

理屈の上では、「へただけど好き」というのもあり得る。

 

これに対して「得意」では、「うまくやることができる」という評価者的な視点が入ってくる。他者の目から見て客観的に「うまい」という結果を出せる場合にのみ、「得意」という称号が与えられる。

理屈の上では、「嫌いだけど得意」というのもあり得る。

 

そして、「好き」と「得意」が重なり合っている場合でも、どちらの動機に重きを置いてその行為をやっているかによって、行為遂行の中身や方向性に違いが出てくるように思う。

 

自分の例を挙げてみよう。僕が子供の頃の話。

 

 

子供の頃(まあ、小学生ぐらいを想定してます)の僕は何が得意だったか?

真っ先に思いつくのは、、、「お勉強」。もう少し正確にいうなら、「テストで高得点を取ること」が得意だった。

 

まあ、、、、、こういうストレートな言い方は嫌みな感じになりやすいのは知ってるけどさ、、、しょうがないよね、事実だし。

物ごとを具体的に考えようとすれば、やっぱり自分に引きつけるのが一番わかりやすいわけで。

なので僕の場合、これ以外の中途半端に得意だったことを持ち出すより、「お勉強が得意だった」というところで話を進める方が、深く納得しやすいのだ。

 

というわけで、、ここはあんまり引っかからずに、「はい、そういう人だったのね」と軽く受け止めてください。

 

では、好きだったのは何?

 

虫取りが好きだったとか、歌を歌うのが好きだったとか、そういうのもあるんだけどそれはちょっと置いといて。

 

「お勉強」に近い分野でいうと、、、、頭の中で、あれこれ「妄想」するのが好きだったように思う。

 

妄想といっても、ただの妄想ではない。

 

なんといえばいいかな、、、「ロジカルな妄想」が好きだったのだ。

 

ゲーム系に置き換えるとわかりやすいかな。

 

たとえば「数独」のようなパズルって、答えを見つけるために必要なのは、リクツの積み重ねのみ。

ああいうタイプの思考を延々と続けるのが、好きなんです。

 

だから、数独は大好き。タブレット数独アプリなどは、何時間でも一人でずーーーーっとやってられる。

 

クロスワードパズルも好き。これも、いくらでもやっていられる。

 

たぶん、野球が好きな人はキャッチボールをいくらでもやってられるでしょ。それと一緒。

 

でも、たとえばスロットマシンのような運試し一発ものは好きじゃない。なんの理屈も、必然性もないから。

 

で、、、こんなふうにロジカルに物ごとを考える思考は、多くの場合、テストの点数を取る上でも役にたつ。

その限りにおいて、、、「好き」と「得意」は共存共栄だ。

 

でも、、、それが破綻することもある。

 

古典的な算数の問題で、「鶴亀算」っていうのをご存知だろうか。

 

「鶴と亀が合わせて6匹います。足の数を数えると、合わせて18本でした。さて鶴と亀はそれぞれ何匹?」みたいなクイズだ。

 

僕は鶴亀算を知ったのは、たぶん小学校3年か4年ぐらいだと思う。年齢で言えば10歳前後。

 

中学生以降の数学でなら、xとyを使って方程式を作ってちょいちょいと解くだろうど、そのやり方は今はナシね。

 

まだxyzを知らない小学生のつもりで、ちょっとだけ考えてみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、、僕の場合、どうだったかというと、、、

 

どうやって解くんだろう、、、ってことを考える前に、「鶴と亀が合わせて6匹」っていうところに引っかかってしまったのだ。

 

この問題作った人、何考えてるの? 鶴と亀をごちゃ混ぜに数えるるなんて、どうやったらできんのよ! 大きさも形も、何もかも全然別の生き物じゃん。

 

さらに輪をかけて、、、「足の数は合わせて18本」って、どういうこと? 鶴の足と亀の足について、「それぞれ何本」という個別の数値を知らずに、合計本数だけを知っている状況なんて、どうやったら起きるわけ? まったく理解できない!!

 

・・・と、まあ、「ロジカルな妄想」ってのは、こういう方向にもいくのですよ。

 

で、、そこで終わるならただのクレーマーなんだけど、「妄想が好き」というからには、話はこれだけでは終わらない。

 

それならば、この問題をどう書き換えれば、おかしくない状況設定にできるか、、なんてことを考え始めるわけ。

 

鶴と亀などという、見るからに違うものを一緒くたにするからおかしいのであって、同じ趣旨の算数問題を違和感なく設定するには、どんな問題にすればいいだろう? と。

 

それで、、、、トリックに使えそうなアイテムとして、たとえば「靴下」というものを思いつく。

 

靴下は、左右同じ形をしている(5本指ソックスは別ね)。だから、脱いでしまえば、それが右足だったか左足だったか区別できない。この特徴をうまく生かして、鶴亀算みたいな算数の問題が作れないだろうか?

 

うーん、たとえば、こんな問題になるだろうか。

 

「赤ちゃんが10人います。全員お揃いの靴下を履いています。部屋が暑かったので、何人かの子が靴下を脱ぎました。脱ぎ捨てられた靴下は全部で8個。さて、何人の子が脱いだ?」

 

で、、、あれ、、作ってみると、「これは答えが一通りには決まらないわ」って気づくわけね。

 

なぜなら、片足だけ脱ぐ子と、両足とも脱ぐ子がいるはずなので。「全部で8個」になる組み合わせは、「両足脱いだ子が4人」から「片足だけ脱いだ子が8人」までの間に、何通りかできる。

 

何通りあるんだろう。全部書き出してみよう・・・・

 

答えがひとつに決まるためには、どうすればいいんだろう?

(たとえば「片足だけ脱ぐのはなし。脱ぐなら必ず両足脱ぐ」っていう条件に決めれば、答えは一通りに決まる。つまらないほど簡単な問題になってしまうけど)

 

・・・・と、こんな感じで妄想は続く。

 

もともとの鶴亀算からは趣旨がずいずいとずれてきたけれど、これはこれで、算数的な考察としてなかなか面白い視点をいろいろ含んでいる。

 

ただね、、ここで問題は、、、、

 

こういう「妄想」にはまり込んでいると、すぐに時間が経ってしまって、本筋である鶴亀算が吹っ飛んでしまう。テストの点数を取ることを目指すなら、こんな妄想にはまってる場合ではないのだ。

 

で、、実際、10歳ぐらいの頃の僕は、こんな感じに妄想で遊ぶことに忙しくて、テストでいわゆるケアレスミスを連発したことがあって、、、すっごく悔しい思いをしたのね。

 

それは多分、自分が悔しかったという以上に、先生や親から「なんでこんなもったいないミスをしたの? もっと集中しなさい」みたいなことを言われて、それが悔しかったんだと思う。

 

さて、ここでポイントは、、、

 

妄想にはまり込んで行った方の思考は、もともとは「好き」思考だということ。

 

「好き」で突っ走るのは、面白い。ひたすら、面白い。

だけど、、、それが暴走(妄想)すると、「得意」(結果が出る)を逸脱することがある。

 

逆に言うと、、、「得意」を守るためには、「好き」を抑えないくてはいけない状況がある。

 

ということで、、、10歳の僕は、「得意」をキープして周りからの評価を維持するために、「好き」を捨てる決心をしたのだ。

 

鶴亀算」のようなお題をテストで見た時に、「あ、これ面白そうじゃん、どれどれ」っていう好奇心的な発想じゃなくて、「最短の手数で確実に答えに到達するにはどうすればいいか」だけを考えることに決めたのです。

 

たぶん、これと大なり小なり似たような経緯を経て、もともとは「好き」だったものを、「得意」で塗り固めてしまった人は、世の中にたくさんいると思う。

 

ピアノを弾くのが大好きだったのに、音大に入ったころには何のために音楽をしているのかわからなくなっていた、とか。

 

野球が好きで子供の頃はいつも日暮れまでボールを追いかけていたのに、中学・高校と部活をする中で、楽しくなくなっていった、とか。

 

絵を描くのが大好きでイラストレーターという職業になったのに、いつの間にか絵を描こうとしたら吐き気が起きる体になってしまった、とか。

 

で、、こういうのを、もう一度「好き」ベースに引き寄せようと、そういうことをこのところずっと考えているわけだ。

 

上のイラストレーターさんの例なら、「得意で塗り固めた」がさらにこじれて、「好き」が「嫌い」に変質している。

こんなことも、実際によくあることのようだ。

 

自分が「好き」なつもりのものごとに、実は「得意」や「嫌い」が、結構根深く紛れ込んでいる。

それらを洗い流して、心底からの「好き」がどこにあるのか、もう一度きちんと見極めよう、と、そういうこと。

 

ちなみに、、、先週の心屋仁之助さんのポッドキャストでもこのネタが取り上げられていた。おお、シンクロニシティ~って思った。

 

心屋さんは、心理カウンセラーという仕事になったとき、「自分は人の話を聞くのが好きだからこの仕事は向いている」と思っていたけれど、その後、実は、好きではないことに気付いたのだそうです。

 

なによりまず、そういうことに気づくのが大事です。

 

「得意」と「好き」は違う。

 

「得意」なことを「好き」だと自分に偽ってないだろうか。

「好き」だったはずなのに、「得意」ばかりを優先させて振舞っていないだろうか。