だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

「正しさ」が支配する世の中

今日は久しぶりに取材も原稿書きもない日だったので、朝からのんびりとテレビを見ていた。

 

僕が朝見るテレビといえば、たいていメジャーリーグ中継。

 

いつのころからか、「野球は朝見るもの」という感覚が、すっかり根付いている。

 

で、、、ぼんやり眺めていると、ダブルプレーを狙ったすばらしいプレーがあった。

セカンドベースに入ったマリナーズの名手カノーが、自らの足下に逸れてきた難しい送球を難なくさばいて素早くファーストに転送。

ぎりぎりのタイミングだったけど、ファースト審判は「アウト!」のコール。

3アウトチェンジ! おみごと!!

 

・・・のはずだった。

 

ところが、相手チームの監督が出てきて審判と何やら言葉を交わし、、、審判はバックネット脇に引っ込んで、ヘッドフォンを耳に装着。

 

2、3分後、ビデオセンターからの連絡を確認した審判は、「セーフ」のジェスチャー

 

判定が覆ったのだ。

スタジアムにざわめきが広がる。

 

これは、今シーズンからメジャーリーグが導入した、「チャレンジシステム」。

 

きわどいプレーに対して、監督が試合中に1回、「今のはちがうだろ!」ともの申す権利を与えられた。

 

 


チャレンジ申請を受けた審判団は、ビデオセンターにプレーのチェックを依頼する。
センターでは、あらゆる角度のビデオ映像をチェックし、判定を再度、審査する。

その結果、今回のように判定が覆ることも少なくない。

野球だけでなく最近は、テニス、アメフトなどさまざまなスポーツで取り入れられている。
そもそもこの種のビデオシステムを世界ではじめて導入したのは、日本の相撲の「物言い」だったらしいが、最近は欧米のスポーツで導入されるケースが目立つようだ。

まあ、、きわどい判定をより正確にする、という趣旨は、もちろん理解できる。
メジャーリーグの歴史でも、ワールドシリーズのような重大な試合で、ひとつの“誤審”によって、試合の流れや勝敗の行方ががらりと変わってしまったケースが、いくつもあるというから。

「判定の精度を上げる」=「より正しい判定をする」という大義名分は、どこから見ても正しい考え方だ。

僕自身、それが間違っているとは考えていない。たぶん正解なんだろう。

ただ、、、おそらく少なからぬ野球ファン(ないしスポーツファン)が、何となく腑に落ちない違和感を感じているのではないか、と僕は勝手に想像する。

まあそれは、僕が腑に落ちない違和感を感じているからに他ならないのだが(笑)

それはどうしてなのか? と、ふと考えてみた。

引っかかっているのは、「正しい」という言葉。

僕らは、「正しい」という言葉に、とても弱い。
この錦の御旗の前では、それ以外のあらゆるものが「誤り」として退けられる。
「お前が間違っている、改めよ」と迫られるような感覚が、「正しい」という言葉を通じて伝わってくる。そんな気がする。

そういう感覚を身につけたひとつのルーツは、もちろん学校教育だろう。
「正解」を追求することがすべてに優先されるような価値観の中に何年もいて、そういう練習を日々積み重ねていれば、だれだって「正しい」ことを良きものとして受け入れる習性を身につける。

僕は数年前まで、某健康雑誌の編集部に勤めていたのだけれど。

ある時、表紙に大きく載せるメインタイトルに、「正しい」という言葉をつけるのが一つのトレンドになったことがあった。

正しいダイエット
正しい食べ方
正しい眠り方
正しい心の取り扱い方

などなど。

それがトレンドになった理由は一つ。この言葉を使えば、雑誌が売れたからだ。

つまり、それぐらい世の中には、「正しい」を良きものとして受け入れる習性を身につけた人がいるってことになる。
(これが、ちょっと前で「僕らは「正しい」という言葉にとても弱い」と断言した根拠でもある)

もしかしたら今でもこのトレンドは続いているのかもしれない。

で、、、自分でもそういうコピーをさんざん作っておきながらいうのもなんだけど。。
僕の中では、この「正しい」という言葉使いは、非常に違和感があった。

いやもちろん、違和感があるから目を引くわけで、それで雑誌が売れる、という面もあっただろう。
だから、販促手法としてはそれでいいのかもしれない。

でも、、、自分の感覚としては、体のお話に対して「正しい」を持ち出すのは、まったくなじまない。

人間の行動を左右する価値観は、「正誤」だけじゃない。

好き/嫌い
美しい/醜い
楽しい/つまらない
うれしい/悲しい
心地よい/居心地が悪い
しっくりくる/しっくりこない

こんな感じの、より直感的・情緒的な価値観の方が、身体的な判断のよりどころとしてはピッタリ収まるように、僕は思う。

それはなぜか。

これら直感的な判断が、そのよりどころを、自分の体の内面の「快/不快」的な反応に求めているのに対して、「正しい」は、外部に設けられたルールなどの決めごとを根拠にしているからだ。

だから、これがたとえば法律をめぐるお話であれば、「正しい」という表現がぴたっとはまるであろう。

そもそも「正しい」「誤り」という表現は、こういった外部の尺度に対してこそ使われる言葉なのだ。

・・・実は先の雑誌の見出しの例では、外部の尺度として「医学的に正しい」という意味も込めている。
医学という外部尺度をよりどころにしているのだ。だから、「正しい」。
そう解釈すれば、あの用例にもうなづける部分がある。

ただ、それにしても、外部尺度と内部感覚をあえて混線させるような用法であることは、間違いないだろう。

そんなふうにして、外と内の基準をごっちゃにすると、ときに人はおかしな方向へ行ってしまうと僕は思う。

うんと極端な例を考えてみよう。

ある夫婦がいて、夫が不倫をしたとする。

現代の社会的なルール(外部尺度)に照らせば、この行動は「誤り」だろう。

だから、もしそれが原因で離婚することになった場合、妻は夫の誤りをたてに慰謝料を請求するだろうし、法律の専門家を交えた交渉の場では、その慰謝料請求は正当なものと認められるだろう。
「あなたは誤りを犯したのだからお金を払いなさい」という妻の主張は、法や社会通念に照らして、「正しい」ものと認定されるわけだ。

それはその通りだとして。

ただ、もしこの妻が、こうした外部ルールに則った「私が正しい、あなたは誤り」「あなたが加害者、私は被害者」という判断の中にずーっと居続け、その「正しい」「被害者」というあり方の上に居座り続けたとしたら、はたしてその人は幸せになれるだろうか? ということを僕は思ってしまうわけだ。

たぶん、難しいんじゃないかな。

内部感覚に照らしたとき、不倫はたぶん、された側にとって「悲しい」出来事だ。
あるいは「悔しい」かもしれない。「怒り」もあるかもしれない。

そういう気持ちが出てくる根底には、人間普遍の願望である「承認欲求」がある。
人から認められたい、価値のある存在として大切にされたいという願望だ。

自分のことを大切にしてくれるはずと思っていた相手が、それを裏切った。
だから、悲しい。あるいは、悔しい。そして、怒る。

これは実に、自然な心理だ。そういう境遇になれば、だれでもそう感じるだろう。

ただ、、、、自分の幸せを形成するよりどころの中で、「承認願望」という他人頼みの部分があまりに大きくなると、幸せになりにくい、というのも事実だろう。
だって、他人のココロは、どうやったって自分の思い通りには操作できないのだから。

すると、なんとか相手のココロをコントロールしようとする。
そのために無意識のうちに駆け引きをしたり、策を講じたり、罠を仕掛けたりする。

また、相手頼みで幸せが決まる生き方は、相手の顔色を見る生き方にもつながりやすい。
承認を得るために、相手の要求にあわせた選択ばかりをしてしまう。

こういう「駆け引き」「顔色を見る」的な関係の持ち方の中から、真に建設的で豊かな人間関係が生じるは、まずないだろう。
単純にいえば、「つまらない」関係に陥りやすい。

少し意地悪い言い方をすれば、夫が不倫をした遠因には、もしかすると妻のそんな姿勢があったのかもしれない。

いやもちろん、だから不倫していいといっているわけじゃないけど。

ただ、、妻が離婚という困難を超えてもう一度自分の人生を前向きに生きようとするときに、離婚という出来事を通じて自分が何を学ぶか、という部分がかなり大事だと思うわけだ。
そしてそのためには、自分の中の「悲しさ」や「悔しさ」と向き合い、さらにその背後に横たわっているであろう自分の「承認願望」をもしっかりと見つめる必要があると思うのだ。

最近よく売れている「嫌われる勇気」という本がある。アドラー心理学を解説した本。
詳しい中身は省くけれど、その本質は、タイトル「嫌われる勇気」という言葉に象徴されている。
人から嫌われるかどうかを気にする生き方では幸せになれない、勇気を持って自分の足で立ちなさい、という話だ(そういう自分になるための技術論、といえるかな)

こういう本が売れるってことは、この種のメッセージに多くの人が共感しているということ。

「ああ、自分も「嫌われたくない」にとらわれて生き方をややこしくしていたんだなぁ」などと思う人が多いのだろう。

そういう発想にたどり着くためには、どこかで自分の中の感情(悲しい、悔しい、怒りなど)と向き合う必要がある。
つまり、内部感覚に目を向けなくてはいけない。

ところが、、、「正しい」にとらわれてしまうと、いつまでもこのプロセスに入れないのですよ。

「私は間違ってないのに何で反省しなきゃいけないのよ」というところで止まってしまう。

「正しい」という錦の御旗を外部基準から与えられてしまうと、自分としっかり向き合うことが、かえって難しくなる。
そんなことが、実際にいろいろな場面で起きているように思う。

そういう世の中は、、、たとえ「正しさ」で満たされていたとしても、果たして幸せなのだろうか?

なんて、思っちゃうわけですね。

※※※※※※

・・・冒頭のメジャーリーグダブルプレーのシーンで、判定が覆ったあと。

解説者が、ふとつぶやいた。

「まあ、カノー選手のプレーがあまりにもすばらしかったので、審判も思わず引き込まれて「アウト」と言ってしまったんでしょうね」

そう、そのぐらい見事な、華麗な身のこなしだった。

スポーツはルールが支配するもの。そう考えるなら、外部基準に照らす精度を高めるのも一つの方向性だ。

でもそれ以前に、スポーツは肉体が躍動するものだと、僕は思いたい。

で、、、だから、ああいうのはアウトでいいと思うんだよね、僕は(笑)

そういう部分がしっかり残っている世の中の方が、僕は好きだな。