笹井芳樹氏の自殺について
とても残念なことだ。
このできごとを「残念だ」と思うのには、いくつかの理由がある。
(1)未来のある優秀な研究者の命が失われたこと。
STAP細胞の件はともかくとして、彼がこの先、科学者としてさまざまな成果を挙げる可能性を持った人材だったことは間違いないだろう。そういう人材を失ったのは残念。
(2)STAP細胞の問題の真相究明において、大きなカギを握るであろう人物がいなくなったこと。
これによって問題の解明が難しくなった。
この2点については、多くの人も同様の感想を抱いていると思う。
加えて、僕の中ではもう一つ、とても残念なことがある。
「生命科学」の第一線にいる研究者が、自らの命を絶ったことだ。
生命科学は、うんと単純化していえば、「生き物って何?」「生きるってどういうこと?」といった問いに答えようとする学問だ。
現在、その内容は多岐にわたり、高度に専門化している。
サイエンスの方法論を精密に駆使して記述される情報は、決してわかりやすい体裁ではない。
でも、そこで扱われているトピックは、突き詰めれば「生きるって何?」的な素朴な問いと、必ずどこかでつながっている(はずだ)。
そして、そのような問いを発する根底には、生命現象に対する何らかの感動とか、驚嘆とかといった、エモーショナルな衝動があるはずだと、僕は思っている。
「生きてるってすごい!」みたいな感嘆こそが、生命科学の原点。
・・・のはず、だったんじゃないの?
今回の事件では、「生命科学の最先端にいる人物が自ら命を絶つ」という現象を通じて、そういう素朴な科学観と現実の間に、大きな隔たりがあることが示されてしまった、ともいえる。
それが、とても残念だ。
人間は、自分が生きていることに価値があると、どうやって信じるのだろう。
日々が順調に過ぎているときは、わざわざそんなことを考える人はまずいない。
でも、大きな挫折をしたときや、周囲から非難を浴びせられるような逆境のただ中に陥ると、自分の価値を信じるよりどころは何だろうと考え始める。
技術や知識、経済力、容姿といった自分に付属する能力的なものへの信頼は、挫折したときにはあまり頼りにならない。
だって、「それがあるにも関わらず失敗をした」という現実があるわけだから。
つまり、「○○ができるから(私には)価値がある」というタイプの自信は、○○ができなくなると、けっこうもろく崩れ去る。
まあ、当然だろう。
加齢や病気などで身体機能を失うような経験をした人は、そういう状況に直面させられることが多い。
「自分なんかに生きている意味があるんだろうか」などと、つい自問する。
こういった問いに対して、根源的な回答は、一つしかないだろう。
「命そのものに価値がある」という答えだ。
でも、どうやったら、それを実感できるのだろう。
ひとつの究極的な実例として、マザー・テレサが設けた「死を待つ人々の家」が挙げられる。
ここでは、行き倒れの人や病気で死にかかっている貧しい人を連れてきて、体をきれいにし、その人の宗教に応じて聖書やコーランの言葉を読んであげたりした。
そうすることで、多くの人々が、人間らしい安らぎを持って死を迎えることができたという。
「自分も愛されているのだ、生まれてきたことには価値があるのだ」と確信できたのだろう。
これは、主に宗教をベースに行われた活動だ。
宗教の社会的な機能として、「命の価値を伝えること」を挙げるのは、納得できる話だと思う。
で、、、僕は、宗教とはまったく違う形で、サイエンス(特に生命科学)も、「命の価値を伝える」という社会的機能の一端を担いうる(かつ、担うべき)ものだと思っている。
とくに日本のような、文化的に一神教ベースではなく、どちらかというと自然崇拝的な精神文化を持つ(森羅万象の中に八百万の神々を見いだし、それを崇拝し、交感し、共存するような心のあり方が根付いている)社会においては、自然科学が果たす役割がけっこう大きいはずだと思う。
せっかくなので、STAP細胞を例に考えてみよう。
STAP細胞という現象が本当にあるのかどうか、今ではまったくわからなくなってしまったけれど、ここでは仮に「ある」ということにする。
(これはサイエンスの問題として僕が「STAP細胞はある」と思っているとか、そういう意味ではありませんよ。手近なところにあって、たとえ話としてちょうどよさそうなネタだから使おうと、それだけの話です)
STAP細胞は、いったん分化した細胞に酸や物理的刺激を加えることで、細胞が脱分化して万能性(いろんな性質の細胞に分化する能力)を取り戻す、という現象とされる。
これ、はじめて聞いたとき、僕は単純に「わーお、すげえなぁ」って思った。
(「本当?」とも思ったけれどそれはここでは言いっこなし。今は「ある」ということにして話を進めているので)
酸や物理的刺激というのは、細胞にとってはあまりうれしくない刺激だ。
細胞を「つらい状況」にさらすことで、万能性という先祖帰り的な力が発現してくる。
これは、あえて物語的にいうなら、「逆境に直面したとき、命(細胞)は生まれ変わる」ってことだ。
逆境が引き金になって、人生をやり直すんですよ。
そういう力を、私たちの身体の中の細胞が備えている。
うわー、それってすごいじゃん。
考えようによっては、ありがたい話にも思える。
いやーありがたやありがたや。なむなむなむ。。
。。。などと手を合わせるかどうかは別として。
いやでも、ある意味手を合わせて拝むに値するような、懐の深い命の営みに思える。
まあ、仮に本当にあったとして、ですけど(笑)。
もちろん、こんなふうに現象を物語化して語ることがサイエンスの本分だとは言いません。
サイエンス自体は本来、自然現象の仕組みを解き明かす方法論であり、そこに意味や価値を付加するものではない。
でも、社会におけるサイエンスのあり方の一側面として、自然現象に「意味や価値を付加する」ことの意義は、もっと評価されていいと思う。
というか、サイエンスも人間がやっている営みなのだから、サイエンスの成果に何らかの意味や価値を付加して物語化するような見方がどこかからでてくるのは、人という生き物の性質として(あるいは大脳が持つ性質として)自然の成り行きだろう。
だったら、その産物を、(サイエンスとはまた違う文脈で)積極的に活かしてもいいんじゃないか、と思う。
サイエンスを生業としている人にとっても、楽しいお話になりえるんじゃないかなぁ。
そういう方向の才能を持っている人も、けっこういると思うし。
そして、「命」は自然現象なのだから、ここにこそ大いに価値を吹き込んでほしい。
「STAP細胞発見」というニュースが世の中をにぎわしていたあのころ。
報じられる情報(あの時点では基本的に肯定的な話が多かった)は、おもに2系統だったように思う。
(1)再生医療経への応用など、実用的(実利的)価値の可能性や期待感
(2)小保方さんというキャラのたった個人をあれこれ取り上げるもの
おそらくどちらも、理研自身が進んで情報提供したものであり、メディアも当然のように飛びついた。
まあ、それはそれでアリだとして、、、
でも、「命の価値を伝える」につながるようなお話は、まったく耳にしなかったように思う。
もし、、そういうことがいろいろな場面で自然に語られ、それなりに価値あるものとして位置づけられるような世の中だったら、、、生命科学者が自殺するという残念なできごとは、ずっと起きにくかったんじゃないだろうか。