だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

北川智久さんのセミナー(技術を学ぶうえで大切なことは?)

昨日、北川智久さんという若い武術家の身体セミナーに参加した。

とても実りの多いセミナーだった。

 

内容はというと、一番印象に残ったのは「ケツだけ星人になってみる」という技(笑)。でもこれは、言葉だけで説明しても、なんのことだか訳がわからないだろう。

ほかにもいろんなことをやったのだが、どれも、ひとつひとつここで細かく説明しても、たぶん「何だそれ?」という印象しか伝わらないと思う。

 

つまり、「武術系の身体セミナー」という言葉から一般に想像されるようなものとは全く違う、訳のわからない内容だった。

 

念のため補足しますが、これはほめてるんですよ(笑)

訳がわからないからこそ、面白かったのです。

 

訳がわからないというのはつまり、「○○がうまくできるようになった」とか、「××の不調がとれた」といった明確な目的・効果がないということ。

そういうのがクリアであれば、“訳がわかる”のです。

 

そういう現実的な御利益とはかけ離れたところで、通常行っている日常的なカラダの動作を自分の体からはぎ取り、新しい動きや感覚を探してみる。

体をアンバランスな状態にしてみたり、「みちのく山道」という小道具を使ったり。「ケツだけ星人」になってみたり(笑)

ひたすら、そういうことをやる。

 

「何が楽しいの?」って思うでしょうね。この説明だけだと。

でも、こういうプロセスでなくては絶対に到達できないことが、たくさんあるのです。

そのことが実感としてよくわかったのが、自分にとって最大の収穫。

 

セミナーの冒頭、北川さんはいきなり、武術とは何の関係もなさそうな話を語り始めた。

それは、ご自身が学生時代、自動車教習所に通っていたときの話。

 

北川さんは主に3人の教官に習ったらしいのだけれど、そのうちの一人がきわめつけに不親切だったという。

教習中、隣に座るだけで、ほとんどなにも言わない。教えようともしなければ、良いとも悪いとも言わない。
たま~に口を開くと、しゃべる言葉はいつも同じ。

「北川さんは、北川さんの運転をしてください」

まあ、もしこんな教官にあたったら、普通、「なんじゃこいつ?!」って思うよね。
北川さんも最初、そう思ったらしい。
だって、ほかの教官は「ハンドルの握り方はこう」「アクセルの踏み方はこう」「車線変更では最初にこのミラーを見て、次に・・・」などと懇切丁寧に正しいやり方を教えてくれるのだから。
お金払って教習受けてるのに、ほとんど何も教えてくれないんじゃあ「金返せ!」という気分がわいてきてもおかしくない。

あるとき、その不親切教官の下で、急ブレーキ教習というのがあった。

「教習所時代に急ブレーキによる急停車を体験しておけば、いざというとき安全に止まれる」という狙いで行われる教習だ。

コースを走り始めた北川さんに、教官はこういった。
「じゃあ、私が『ハイッ』といったら急ブレーキを踏んでください」

そう言ったきり、黙りこくる教官。

仕方がないのでいつものコースをひたすら走る北川さん。

それでも、合図はこない。

なんだこりゃあ、いったいどうなってんだぁ・・・と思いながら・・・・延々といつものコースを走って・・・ふと、ちょっとぼーっとしたそのとき・・・・

「ハイッ!」(教官)

思わぬことにぎょっとした北川さん。
ぎょっとして、はっとして、そして我に返ると・・・ブレーキは踏んでいなかった。

・・・・うわぁ、やばいかも・・・

そのとき、その教官が珍しく口を開いた。

「とっさの急ブレーキなんて踏めないことが、よくわかったでしょう」

「・・はい」

「だから、急ブレーキを踏まなくていい運転をする必要がある」

「はい」

「マニュアルに書いてあるテクニックなんて、公道に出たら何の役にも立たない。使えるのは、自分の体が覚えたものだけです。だから・・・北川さんは、北川さんの運転をしてください」

ほぉ~、このおじさんちょっとかっこいいじゃない!って見直したくなる展開ですね。

ここには、大事な要素が3点ほど含まれていると僕は思う。

ひとつは、「自分の限界を体感する」ということ。

本当に急ブレーキをかけなくてはいけない状況なんて、普段はなかなか遭遇することはない。
ここでいう急ブレーキとは、教官が横に座って「3,2,1,ハイ踏んで~」と手取り足取り導いてくれるブレーキ練習のことではない。
そうじゃなくて、本当に目の前に子供が飛び出してきてこのまま進んだら1.5秒後には間違いなくぶつかるという、そんな本物の状況のこと。
そんな「うわっ、やばっ!!」という状況が現実になったとき自分は果たしてどうなるのか? 
「3,2,1,ハイ踏んで~」という練習を何百回繰り返しても、これは絶対にわからない。

この不親切教官の不意打ち急ブレーキ教習は、そんな自分の限界を教習生に多少なりとも味わわせるために、彼が編み出した技だったのだろう。

二つ目のポイントは、もっと重要。
「車は危険だ」という実感である。

車は、普通車でも1トンぐらいの重さがある。それが街中でも時速50~60kmぐらいで動く。高速に乗れば100km/hを超える。
何かがあれば、乗っている人も、周りの人も、簡単に命を失う。
生身の人間では到底対抗できない、走る凶器という性質を持っているのが、車。

「そんなのわかってます」と思う人も多いだろう。
確かに、知識としては、これぐらいのことみんな知っている。教習所でも情報は伝えられているだろうし。
でも、その危険さをどこまで実感として感じているだろうか。

道具を取り扱う人は、それが何であれ、「危険だ」と実感しながら操作することで、取り扱いが丁寧になるし、リスクを回避するように自然と振る舞う。
例えばよく切れる包丁やはさみ。斧やナタ、チェーンソー。裁縫の針だって、そうだ。
あるいは化学教室にある劇薬とか。野球のボール(硬球)やバットだって、扱いによっては十分危険だ。

逆に「安全だ」と思ってしまうと、そういう注意をしなくなる。
それでかえって、操作をするときに気を緩めることになる。

そんな目で見てみると、例えば「安全運転」という交通スローガンは果たして、車のリスクを下げることに貢献しているだろうか?

厳密にいえば、安全な運転なんてあり得ない。
あらゆる運転が、常に危険をはらんでいる。
最大限がんばった場合でさえ、できることは、「リスクを下げること」である。
どこまで下げても、そこには危険が必ずある。だから「安全」とは根本的に意味が違う。

「安全運転で行きましょ~」というスローガンは、「車は安全ですよ、運転マニュアルさえ覚えればだれでも簡単に操作できますよ」というゆるい(でも真実とは異なる)イメージを広げているだけじゃないのか。
ちょうど「原発は安全です」というスローガンと一緒で。

「マニュアルなんか、実際には役に立たない」というこの教官の言葉の裏側には、「命の危険をはらむ技術なんだぞ!」という、一種の覚悟を迫るような響きが感じられる。

で、最後のポイントですが。
そういう一種の覚悟を踏まえ、危険を実感して取り組むから、操作するときの動作、目配り・・・などいろいろなことに、自分自身が意識して注意を向けるようになる。
そうなって初めて、「自分の体で覚える」ということが可能になる。

危険を十分認識すれば、どうしたってその危険を「回避する」ないし「制御可能な状況下に置く」ことに注意が向くのだから、ひとつ一つの操作手順がおざなりになるわけがないのだ。
包丁でタマネギを適当に切ってて自分の指をスパッと切り落とし、「だってこのマニュアルに書いてあった通りにやったんだから・・・」なんていう人はいないだろう。よく切れる包丁を手にすれば、だれもマニュアルなんかあてにしない。頼りになるのは、自分が慎重に、丁寧に操作しているという意識だけだ。

そういう意識で操作するから、操作法の上達も早いし、自分でも工夫する。

逆に、そういう意識の設定を抜きにして、「ハイ、右手はこうして、左足はこうで。大丈夫、安全ですよ~」などとマニュアル通りに教えても、そんな頭にのっけただけの知識はいざというときに役に立たない。
マニュアルが想定していない非常事態が起きると、何もできずに思考停止してしまう。

・・・・ようは、本当は、原発で働く人が一番あの装置の危険さを心底わかってなきゃいけないっていう話です。
実際に手を動かしている人が「あ、大丈夫、これ安全だから」なんていってる姿ほど、怖いものはないでしょう?
そして、「怖い」ということを本当にわかっていればこそ、いざというときのシュミレーションも準備する。運転操作の習得も通り一遍じゃすまない意識が働くだろうし、想定を超えた事態が起きたときも、機転が利くだろう。

武術も、車の運転も、本質は一緒。

・・・・というわけで、冒頭部分は、教習所のお話が延々と続いたのです。

北川さん自身が、「僕の武術のベースは何かというと、実は教習所に通っていたときにね・・・」なんて話し始めたのだから、この話は武術家である彼にとってのバックボーンなのです。

で、・・・ここで僕がいいたいのは、セミナー自体も、こういう考え方をベースに構成されている、だから面白いのだ、ということ。
こういう考え方で構成されているから、マニュアルチックなワークショップでは感じられないいろいろな実感が得られたのだな、と、そんなふうに思ったわけです。

セミナーでは当然のごとく、マニュアル的な進行次第も、達成すべき目標も、ない。
まあ、ネタとして取り上げるメニュー内容はある程度準備していただろうけれど、例えば「そこから受講者は何を学ぶべきか」みたいな学習指導要領チックな想定は、何もなかったはずだ。

その代わり、参加者の体を、少しばかり“危険な状況”に追い込む。

いやもちろん、いきなり刀を突きつけるわけじゃないです。相手は素人ですから。
使ったのは例えば、「みちのく山道」という道具。(興味がある人は検索してください)

多少なりとも似たような姿のものはハンズの健康売り場などにもあるので、ここに乗るとどんな感じなのか、イメージはできると思う。

この上を歩いたり回ったりするわけだ。目を閉じたもする。
当然、足下はかなり不安定。しかもけっこう痛い。
これはもう、現代の安全な生活になじんだ体にとっては、十分すぎるほど“危険な状況”なのである。

そんな状況に追い込まれると、体の中のどこかで、普段の日常ではなかなか発揮されない非常事態用のスイッチが入る。
すると、体の動きや呼吸、バランス感覚、ボディイメージなどに変化が表れる。

そういう変化を、体の中で丹念に探してみる。

普段は見えない、自分の体の振るまいが発見できる。

それが何を意味しているのか。どんな価値があるのか、なんていうことは今の時点ではだれもわからない。
ただ、操り方次第で体はずいぶん変わるという実感を、皆さんそれぞれ、深く体と心に刻んだのではないかと思う。

深く刻まれたのには、理由があるわけです。

そこが、一番面白かったところ。