だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

泉谷しげる「楽曲廃棄」宣言に思う、失敗から何を学ぶか

泉谷しげるさんが、過去の楽曲のうち2曲を「永久に廃棄する」と宣言したそうだ。

本人ブログはこちら

それに関する報道がこちら(Huffpostより)

 

以下、Huffpost記事の冒頭部引用____

 

 

シンガーソングライターの泉谷しげるさんが、自作の楽曲2作品の著作権を放棄する意向を明らかにした。5月5日、公式ブログで表明した。

 

泉谷さんが「このさい永久に“廃棄”することにした」という2曲は、1973年に発表された『自殺のすすめ』と、1975年4月『先天性欲情魔』の2曲。歌詞に過激な言葉が含まれており、泉谷さん本人も次のように振り返っている。

 

 

20代前半に作った「自殺のすすめ」「先天性欲情魔」とかとか! なんてヒッドイ歌だ! こんなイロモノソングなんぞ〜オイラが作ったンじゃなくゴーストライターに造らせたに決まってる!(笑) わけえときのツッパリぐあいをトシくってから見返すと〜稚拙だワイ! ホント恥ずかしい…。 (泉谷しげるオフィシャルブログ『リターンズの壱』より 2014/04/04)

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Huffpostのリンクをたどって、廃棄にした2曲の歌詞を見てみた。

確かに、ひどい。あまりにひどい。 なるほど、本人にとってこれは強烈な汚点だろうな。。と思う。

 

僕も、物書きという職業(および、細々とながらギター音楽活動)をしており、表現者というくくりでいえば、他人事ではない。

 

 

だって、雑誌などで過去に自分が書いた文章や、CDに収録されたオリジナル曲の演奏に接する機会があって、「ひぇ〜こんなのを平気で世に出したんだ・・・」と、穴があったら入りたい気分になることは、決して皆無ではないからだ。

 

表現者である以上、過去の自分が作ったものに対しても、責任を負わないといけない。 これは当然のことだ。

 

その意味で、泉谷さんの「永久に廃棄する」宣言はどうなんだろう?ということを考えてみたい。

 

結論から言えば。。
僕は彼の行動を支持する。
若干の追加注文はあるのだけれど、現時点で賛否判断せよといわれれば、賛成だ。

いやまあ、「著作権も放棄する」という言葉が、法的に何か意味のある結果につながるかどうかは疑問なのだが。。

そこは、誰か詳しい人に解説していただくとして。。

自分の過去の作品の中に、何か、ひどいものがあったとする。
発表してから何年も経ち、そんなものを作ったことさえすっかり忘れていたけれど、何かのきっかけで改めて見返して、、「うわ、ひどい」って思ったとしよう。

どんな気分になるだろう?

僕だったらたぶん、「ああひどい、恥ずかしい、なかったことにしたい」という気持ちと、「でもこれは、この時点の自分がよかれと思って出したものだし、どんなに恥ずかしくても、未熟でも、これも自分の一部。受け止めるしかない」という気持ちの板挟みになると思う。

で、、ひとしきり「うわぁ~~」と自分の中で騒いだあとで、、、その作品をもとの棚に戻し、ふーっと息をついて、そのあとはなるべくそこに触れないようにする・・・
つまり、“過去”という棚の奥にそっと置き去りにする。
現実には、そんなふうに振る舞うんじゃないかな(笑)。

むろん、消去はできない。消去するわけでもない。
でも、いまさらあえてさわりたくない。人目にもあまり触れてほしくない。
だからそっとしておく。

もちろん、その作品に関する何らかの評価(批評)が投げかけられたりしたら、それについては受け止めるしかないと思っている。それは当然だ。

でも、自分からあえてそのネタを持ち出すことは、できればやりたくないだろう。

ところが泉谷さんは、わざわざそれをブログで宣言した。

自分からあえて、恥ずかしい過去を再度、世にさらしたわけだ。

これは、「過去の表現に対しても責任を負う」という点において、「目につかないところに静かに置いておく」やりかたより、よほど腹をくくった対応だと、僕には思える。

もちろんここには、そうせざるを得なかった事情も透けて見える。

泉谷さんは、過去の自分の全作品を演奏するライブシリーズの企画中だったという。
その準備過程で、この2曲も見返したのだろう。そして「ひどい」と思った。

でも、「全曲歌う」と銘打ったライブで、もしこの2曲だけこっそり避けて、、それがあとから明るみになったら、その方が“ブランドダメージ”としては大きい。
そんなマーケティング的(ないしリスクマネージメント的)判断を、誰かがくだした可能性は、十分にある。

また、今回の件で非常に重要なのは、、、、この曲の場合は、「ひどい」の中身が、音楽性などの「好き、嫌い」レベルを超えているという点だ。

「ひどい」の意味が、「表現として幼稚」とか「センスがない」といったことであれば、それは突き詰めれば好みの問題であり、本人が何らかの反省材料としてその恥ずかしさを味わっておけば、それで十分だろう。
でもこの作品に関しては、そういう次元の話ではない。それは、歌詞を見ればわかると思う。

だから、決別をはっきりさせる必要があった。
個人的に「恥ずかしい」と思うだけではなく、社会的に「あれは間違いだった」と公表する必要を感じたのだろう。

つまり、この廃棄宣言は、「自分は過去に、自殺についてこのような見解を表したことがあったけれど、それは誤りだった」と、自分の失敗を認めた宣言でもある。

失敗は、人を成長させる。
それまで気づかなかった視点や、新しい価値観に目を開く、大きなチャンスだ。

僕自身、自分の人生を振り返って、成功よりも失敗から得たものの方が、よほど大きかったと実感している。

ただしそうなるためには、「これは、ここが失敗だった」と、自分の中ではっきり位置づけられなければならない。

泉谷さんは、ブログで公表することで、自分の中に「あれは失敗だった」と刻み付けたのだろう。

僕は、自分では、失敗から学べる人間でありたいと思っている。
また人の失敗については、失敗の中身そのものより、そこからその人が何を学び、どう成長したかのほうに注目したいと思う。

だって、、、人間だれだって失敗する(誤りを犯す)のだから。
誤りを烙印化しても何終えられない。そこから学んで成長することの方が、よほど重要なはずだ。

というわけで、、、「今はあれを“誤り”だと思っている」という趣旨の宣言と受け止めれば、評価に値すると思う。

まあ、趣旨をよりはっきりさせるためには、例えば自殺予防活動に寄付をするとか、ボランティアで参加するとか、そういうテーマの曲を作るといった活動があれば、なおいい。
そうなれば、単なる売名行為ではなくて本気なんだ、ということが伝わる。
(逆にいえば、これだけで終わるならただの売名行為にも思える)

そこは、今後に期待(注目)しておこう。