だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

腹筋と筋肉痛と、自分の頭を縛っている思考のクセを外すことの関係について

ウー、腹筋が痛い。。

 

昨日の野口体操クラスの後遺症だ。。。

 

野口体操って、そもそもそれほど知名度が高いものではないけれど、名前を知っている人でも、ゆらゆら、グニャグニャと脱力する体操、みたいなイメージを持っていることが多いと思う。

まあ、そのイメージは決して間違いではないけれど、もし「脱力=ラク」って思ったとしたら、大きな間違いだ。

グニャグニャ動く脱力動作でも、2時間のクラスで生身の肉体をフルに動かしていれば、翌日腹筋が痛くなるぐらいのことは、平気で起きる。

 

特に、昨日は「腕立てバウンド」という、野口体操の中ではある意味、“力技”的な要素が強い動きの中で、新しいイメージを探りながら繰り返し試行錯誤したので、、

まあ、必然的な結果です。

 

「運動の翌日に筋肉痛が出るんだからいいじゃん」っていう声も聞こえそうですが。

 

 

ははは。まあ、それはそうです。

でもきっと、明日はもっと痛くなるんだろうな。

 

ちなみに腕立てバウンドというのは、こんなの

2枚載ってるうちの、上の写真

 

ふわっと、ういてるでしょ?

 

この空中浮遊の瞬間は、全身がそうとう脱力しています。だから、ふわっとした印象になる。
でも、当然ですが、この浮いた状態にたどり着くまでのプロセスにおいては、相当いろんな筋肉が働きます。
そりゃあ、飛ぶんだから、働いてないわけがない。特に腹筋群。
だから筋肉痛になる。

ただ、、、「筋肉が働く」=「(意識して)力を入れる」ではないのです。
主観的な感覚(イメージ)としては、グニャグニャとか、ふわっ、とか、ぶらぶらとか、そんな感じなのです。

だからさっき、「“力技”的な要素がある」って書いたけれど、これはあくまでも、結果として動員される筋肉量が多い、という意味。
主観的に歯を食いしばって「おりゃあぁぁ!」とがんばるという意味ではない。

実際の感じとしては、体がかってにひょいっと弾んでふわっと浮くような感じ。
力を使ってるという感覚は、ほとんどありません。

で、、その「ひょい」とか「ふわっ」という表現の中に、何らかのボディイメージがあるんですね。

人間は必ず、体を意識して操るとき、自分の体のあり方を何らかの姿(構造体)として把握している。
野口体操のような、体をグニャグニャの液体的=無構造的なあり方でとらえる操作においてさえ、その「グニャグニャ」という特定のあり方でとらえていることになる。

で、、その把握した姿(イメージ)に乗っ取って、体を操作する。

そして、結果としての動きがどんなふうになるかは、脳内のイメージに、かなりの部分、左右される。

例えば「腕を挙げる」という単純な動作ひとつとっても、、、

・腕の関節部分以外は鉄骨アームでできているクレーンのようなイメージ
・全体が柔らかいムチのようにしなるイメージ
・操り人形のように関節がかくかくの腕を指先から糸で吊られて引き上げるようなイメージ

例えば、この中からどれを採用するかによって、全く違う動きになるはずだ。

僕が今までやっていた「腕立てバウンド」のやり方は、自分で採用していた「ひょい」「ふわっ」のイメージに根ざしている。
それとは違う、新しいものをやってみましょう、と、昨日のクラスはそこがテーマだった。
それで、違うイメージをいろいろ探っていった。

結果として、今までのイメージではあまり使われていなかった筋肉が、いっぱい働いた。
だから筋肉痛になった。

ということが、起きたのでしょうね。
「腹筋が痛い」と一口に言っても、痛い場所が普通じゃないし(笑)

こんなふうにボディイメージを何か新しいものに置き換えていった場合、、、変わるのは筋肉痛の場所だけじゃない。

動いている最中にすでに、体の感じ方というか、自分の中で感知する体のようすが変わる。

「おお、こんなふうにシュッと動くんだ」
「へーこことここがつながるのか」
「ヘーー、力を使ってる感じは全然ないのに、軽々と体が弾んでるぞ!」

のような感じで、自分の体のあり方について、新たな発見をする。

そういう発見のことを、よく「気づき」と呼びます。

何かしら違うイメージや、操作を持ち込むことで、体に関する何らかの気づき(発見)をもたらす。自分の体の、新しい可能性を発見するわけです。

昨日の野口体操クラスでは、腕立てバウンドにおけるイメージの持ち方(の変更)が大きなお題だったわけですが。
通常、ボディワークと呼ばれるプロセスでは、

「過去の生活の中で自分が(無意識に)身につけているボディイメージ」

に対して働きかけます。
自分の体にクセのように染み付いた、自分の体の経験的イメージに対して、揺さぶりをかけるわけです。

で、そのためにしばしば、何らかの非日常的なボディイメージ(動作)が適用される。
ヨガだったらアーサナ
武道でいえば、型。
野口体操の動きも、ボディワーク的なものとしてとらえることもできるでしょう。

何か新しい型(特に、非日常的な型)を持ち込むことで、自分の中のくせに気づき、それとは違う新しいやり方(可能性)を発見する。

こういうアプローチは、なにも身体的なものに限った話ではありません。

頭の使い方においても、ほぼ同じことが起きます。

最近ちまたでけっこう話題になっている「ロジカル思考」(Logical thinking)なんていうのは、まさにそういうことでしょう。
「ロジカル」っていう「型」を導入することで、自分が無意識に採用していた思考経路(頭のクセ)に揺さぶりをかけ、それとは違う考え方があることへの気づきを促す。

精神医学で用いられる「認知行動療法」も、同様のことをやっていると見なせ
ます。
自分がとらわれていたひとつの見方(「私ってかわいそう」とか)をゆさぶり、そうじゃない見方もあるなっていう気づきをもたらそう、という試み。

ただ、、、気づきの鮮烈さにおいては、ボディワーク的な「からだ」における発見の方が、よほど鮮烈でインパクトが大きいのですね。
これは経験的に、断言できます。

だから、、カラダで「気づき」体験を重ねた経験を持つ人は、頭の使い方においても、自分の思考のクセに気づき、それを外すというプロセスを、わりとすんなりこなせるのです。
「クセを外す」というアプローチのコツみたいなものを、体で知っているから、「あ、そういうことか」って、すぐわかる。
これも、自分の経験上の確信です。

そこから逆方向に話を飛躍させると、、、カラダでの気づき体験を経ずに、自分の頭のクセ(枠)を外すのって、かなり難しいことなのじゃないかなぁ・・・

って、頭の使い方に関するハウツーが書かれているビジネス書的なものを目にするたびに、僕はそんなふうに思うんだな。

だから今日の結論は、、、本を読むより、野口体操をする方がお得ですよ(笑)

あれぇ、、、書き始めたときはこういう話のつもりじゃなかったんだけどな。。
まあ、これはこれでいいか。
そのうちまた、続きを書くことにします。