「追いかける」と「気づく」
青い鳥を追いかけていろいろな世界を巡ったけれど、結局、鳥は自分のうちにいた──
子供のころに読んだこのストーリーは、ただのつまらない、オチのない話にしか思えなかった。
「へ? それでなに?」って感じの、気が抜けた終わり方。
少し大人になって、「あれは、幸福は実は身近なところにあるっていうたとえ話なんだよ」という説明をどこかで目にして、ふーんとは思いつつ、なんだ説教臭い話か、と、かえってつまらなさが増えたような気がして。
それが、この歳になって、カラダにもいろいろガタがきて、それでようやく、ああそういうことか〜って思えるようになってきた。
最近、知り合いの鍼灸師さんのところに通っている。
物書きという仕事をしていると、肩こりと目の疲れは、職業病というレベルを通り越し、もう自分の一部みたいになっている。
何しろ、連日パソコンの前で6時間とか8時間とかウンウンうなっているのだから。
鍼とマッサージをやってもらうと、それが少しラクになる。
しばらく通って、、「これぐらいが日常」というレベルがちょっとずつ上がってきた。
それで、ある日の施術が終わったときに、「おかげでだいぶよくなったよ、ありがとう」と声をかけた。感謝の気持ちを伝えようと思って。
そしたら、こんな返事が返ってきた。
「よくなってきたのは、きたむらさんのカラダが自分で治してるんですよ」
!!
おお、そうかそうか。そうだったか。
カラダには、なんらかのストレスやゆがみが起きたときに、自力で復元しようとする回復力(弾力)がある。
免疫、修復、恒常性。そんなふうに呼ばれる作用だ。
鍼灸のような東洋医学的手技は、そういう内在的な力を刺激しているだけ。回復するのは、自分のカラダの力によって、だ。
いや、西洋医学的な投薬や外科手術も、根源的には同じこと。緊急事態をコントロールしたり症状を緩和したりするパワーは極めて強力だけれど、最終的に治癒が起きるとすれば、それは自分のカラダが有する回復力によって、である。
そういうこと、頭では知っているけれど、いざとなるとよく忘れてしまう。
理由はたぶん、僕らの頭が、青い鳥をどこか外の世界に追いかけがちだから、だろう。
「健康」という素晴らしいものが、どこかにある。
その理想郷に行ってみたい。そうやって遠くのほうへ追いかけたくなる。
今よりもっといいことが、向こうに行けばきっとある。
そうやって追いかけ始めると、、、たとえば、家の中に健康食品やサプリメントの山ができたりする。
テレビの健康情報で、店頭からヨーグルトや納豆が売り切れたりする。
名医を求めてドクターショッピングをする。
まあ、、そういう振る舞いを「間違い」とは言いにくい面もあるのだけれど。
健康法の中には、医学的な裏付けがあるものも多いからね。
でも、そういうのを「追いかける」のは、どこまでいっても際限がないし、満足もできない。
青い鳥っぽいものの尻尾を捕まえたと思うのは一瞬で、次の瞬間にはもう、「あ、向こうにもっと綺麗な青い鳥がいる」って走りたくなる。
キリがない。
自分のカラダの中に宿る力は、追いかけて見つかるタイプのものではない。
むしろ、ふと目線を落とした時に、「あ・・」って気づくものだ。
「お前、そんなところにいたのか」って。
はい、ずっと前から、そこにいたんです。気づいてなかっただけで。
「健康」っていう言葉には、追いかけることを強要しているような響きがある。
理想郷とか、フロンティアとか、夢はかなうとか、そういうタイプの言説と通じる響き。僕にはそう思える。
日本人がこの言葉を使い始めてから、まだ150年ぐらいしかたってないんだよね。
その前には、、、「養生」っていう言葉があった。
こちらは、「気づいてよ、カラダってすごいんだから」って言ってるような気がするんだけど。どうでしょうか。