書棚の整理をしなきゃと思いながら、、知識と知恵の違いについて考えた

去年の10月に品川駅の近所に引っ越して、はや3カ月。

新幹線が止まる巨大駅のそばの、むちゃくちゃ便利だけど生活感は乏しいエリアでの生活にも、大分慣れてきた。

まあ、そもそも期間限定物件だし、ずっとここに住み続けるわけでもない。

物見遊山っぽいノリで楽しんでます。

何しろ徒歩5分圏内に映画館と水族館とボーリング場がある生活なんて、そうそうできるものじゃない(笑)

 

で、、環境にはなじんできたけれど、家の中はなかなか整わない。

まあ、さすがにもう段ボール箱が散乱する状況ではないけれど。

引っ越してきたときに「とりあえずその辺に突っ込んでおこう」と思って棚や引き出しに入れたものが、ほぼそのままの状態だ。

 

だから、「あれ、どこだっけ?」と思ってあちこち探す事態が、いまだに絶えない。

 

特に問題なのが、書棚。

 

 

引っ越し前も、けっして整理されていたわけではなかったけれど、自分の手で買い込んだ本が、おおむね買った順に並べたり積み上げたりされた本の山は、自分の頭の中ではある種の秩序というか、タグ付けがなされていたようで、「ああ、あの本どこだっけ?」って思ったときに、たいていはそう時間をかけずに、目的のものを見つけることができた。
(たまに、半日以上捜索しても見つけられず、仕方なく「どこかにあるはずだけどな~」と思いながらまた買ったりすることもあったけれど、、、実際はすぐ見つかることの方が多かったのですよ)

ところが、引っ越しに伴って、突貫作業で所有していた本の半分以上をブックオフに売り払い、残った本をとにかく箱詰めして運んだので、脳内序列の並びがすっかりシャッフルされてしまった。

今は、どこにどの本があるのか、とんとわからない。
「あの本、持ってたはずだよな」という記憶も、ろくに役に立たない。

何を売って、何を残したかなんて、覚えてないからね。

ああ、、こりゃまいった。

なんとかしなきゃ、、、と思って、はや3カ月。

整理しなきゃなぁ・・・と思いつつ、ぼんやり書棚を眺めていて・・・

ふと、気づいたことがあった。

今の書棚の姿も、決して整理されてないわけではないのだな。

今ある書棚は、棚の間隔が一律ではない。
狭いところ、広いところ、その中間、、と、いろいろな幅の棚が入り交じっている。
一番狭いところには、文庫本か新書ぐらいしか入らない。
A4版ぐらいの本になると、一番広いところにしか入らない。

・・・という書棚の形状に合わせて本を並べたため、棚ごとの本のサイズは、おおむねそろっているのである。

こういうのも、一種の整理には違いない。
ただ、自分の脳内インデックスと合致しないから、どこに何があるかわからなくて不便だけれど、もし見た目の秩序を問題にするなら、それなりに整っている。
少なくとも、引っ越し前よりは、はるかにきれいで整然としている。

つまり、この「不便」という言葉は、「自分が必要なときに必要な本を素早く見つけられる」という目的(評価軸)を持ち出したから下された評価なのであって、もし違う物差し、、、たとえば見た目の美観のような評価軸を持ち出せば、全く違う評価に至る可能性がある。

こういうのを、「価値観の違い」というのだろう。
価値評価をする物差しが違えば、あるべき整理や秩序の方法も、全く違う。

ふーん、これはちょっとおもしろいな。

じゃあ、ほかにはどんな整理法があるだろうか。。

まず考えられるのは、本のジャンルやテーマごとに分類する、というやり方。
これはまあ、かなり普遍的に役立つ方法でしょう。
図書館はたいてい、こういう方法でやってます。

書店も、基本的にはジャンル別分類を採用している。
でも、それに加えて、大きな書店の文芸コーナーあたりにいくと、よく作家名があいうえお順に並んでいたりする。
「あの作家の本を買いたい」という人が目的のコーナーに効率よくたどり着くには、こんな秩序が役に立つわけだ。

本の出版年や購入時期で時系列に並べるというやり方も考えられる。
引っ越し前の僕の脳内インデックスを貫いていたのは多分、購入時期の時系列軸だったと思う。
ほかの人からみると、何の脈絡があるのかわかりにくいだろうけど、自分にとっては実は、このやり方はかなり使い勝手がいい。
個人の資料館などでも、意味のある秩序かもしれない。

あとは、そうだな、、前につとめていた雑誌社の資料室の他社雑誌コーナーは、雑誌を出版社ごとに分類していたような記憶がある。
まあ、いわゆる業界の人にとっては、そういう区分で並んでいるのが、目的の雑誌にたどり着く早道ってことかもしれないな。

なるほどね~、「整理」って一口に言っても、一筋縄じゃいきませんな。

よく、お母さんが部屋を散らかしている子どもに「ちゃんと整理しなさい!」などというけれど、、
もしお母さんが実力行使で散乱したものをその辺の棚に突っ込んだら、見た目はきれいになるけれど、どこに何があるかわからなくなって子どもは混乱するかもしれない。
散らかっている状態が、意外と本人には都合良く並んでいる、ということも、ままあるわけで。

さて、、、もうちょっと話を進めてみよう。

ここでいう「整理」とか「秩序」は、個別の要素(この場合は、本)をどのように結びつけるか、という問いととらえることもできる。
一つ一つの要素(本)は、それ自体が単独でも価値を持っている。
けれど、それらをなんらかの方針に基づいて関連づけて並べることで、個別の価値を超えた体系的な世界観のようなものが形成される。

これは、僕らが頭の中で何かを生み出そうとして考えるときにやっている行為と、よく似ている。

頭の中に、いろいろな情報や、断片的な知識がある。
それを、何らかの形で結びつけることで、あるまとまったアイデアや、思考というものが浮かんでくる。

そして、出来上がったアイデアを眺めると、「私はこういう人間」みたいなイメージが、結びつけ方のポリシーの中に浮かんで見えることがある。

で、、世の中ではしばしば、一つの価値観(目的)に基づいた一つの秩序(結びつけ方)に固執してしまうという現象が、よく起きる。
「とにかく見た目がきれいに整頓されてなきゃダメ!」みたいな所に、固まってしまうわけだ。

そういう姿が、「私らしさ」「私のスタイル」「俺のこだわり」などともてはやされることもある。

それでうまくいってるうちは、まあよしとしよう。
ある特定の価値観のもとでは、多分そのやり方はとても役に立つだろうから。

だけど、それだけじゃうまくいかない状況に、いずれ直面する。

そうなったときに、別の配列のポリシーへスムーズに移行できるかどうか。
一種の、頭の柔らかさみたいなものが試されることになる。

理想的なのは、移行すべきポリシーを自力で発見することだろう。

「なんかうまくいかないなぁ・・」と、いろいろ試行錯誤したり熟考したりするうちに、脳内ニューロン相転移が起きて、情報が違う配列で結びつく。

その瞬間・・・「あ!」と、ひらめくわけだ。

「そっか、この状況では著者名をあいうえお順に並べればいいんだ!」と、膝を打つ。

さて、、この瞬間に、問題設定の階層が、1段階高いところへ移ったのにお気づきだろうか。

最初は、個別の知識が、バラバラと点在していた。

そこに、ポリシーa(見た目がきれい)を持ち込むことで、配列Aができあがった。
これでうまくいっていた状況を、状況αとしよう。
たとえば小学生が自分の書棚を整理するような状況なら、多分これで十分だ。

ところがそれではうまくいかない状況βに遭遇した。
高校生になって、書店でバイトを始めて、棚をまかされた、とか、そんな感じ。

どうしたらいいかなぁ・・と悩んだあげく、ポリシーb(著者名をあいうえお順)がひらめき、配列Bを作ることができた。

ポリシーaとポリシーbはそれぞれ、個別の知識を結びつけるやり方である。
ポリシーaは「見た目をきれいにするのが大事」という価値観に根ざしており、ポリシーbは「お客さんが効率よく目的の本にたどり着くのが大事」という価値観に根ざしている。

ひとつの方法に固執している限り、知識の結びつき方の広がりは、一つの価値観の範囲(イメージ的には一つの平面内)に限定される。

ところが、先のひらめきによって、状況αにおいては配列Aを、状況βにおいては配列Bを採用すればいい、という、単一価値観の平面を超えた、立体的な世界が得られた。

これは、単に二つの整理法を覚えた、というのとはちょっと意味が違う。

どの状況でどんな整理法を採用すればいいのか、という、知識の体系ポリシーを選び、あるいは、生み出す力=メタ知識、とでもいうべきものだ。

言葉をかえれば、「何が正解となるかは状況によって変わる」という世界のあり方の認識を、身を以て体得した、ともいえる。

現実には、こういうタイプの一つ階層があがった力(メタ知識)を、個別の知識と区別して「知恵」と呼んだりするのだろう。

でも、、、もし書店でバイトを始めた高校生が、店長から「ここはあいうえお順で並べるように」といわれて「はいっ」って答えてそうやっていたとしたら、、、単に二つの整理法を覚えただけってことになるかもしれない。
その場合は、「知恵」って感じじゃないよね。
平面が2種類あるだけ。

さてさて、、、書いている途中から、何となく背中に嫌な脂汗を感じたのはなぜだろう。

どうやら僕は、、書棚の整理という目前のお仕事のハードルを、わざわざ、とてつもなく引き上げてしまったようだ。

「知恵」ねぇ。。

いつになったら手が付けられるだろうなぁ。。