だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

「学ぶ」こと、「遊ぶ」こと・・・システマ呼吸法の体験を通じて思ったこと

今日も暑いっす。

 

ライブが近いので、ギターの練習をちゃんとやらなきゃいけないのだけれど、今日はいろいろこまごまとやることがあって、まだギターに触っていない。

ブログ書いたら、まじめに練習します。

 

・・・と、いま「まじめに」という表現をなにげなく書いてしまいましたが。

 

何か技術の習得とか、学ぼうとしている場合、「まじめにやる」「真剣にやる」という姿勢はたいてい、美徳としてとらえられます。

 

逆に、まじめの反対といえる「不まじめ」「いいかげん」などといった態度は、あるべきじゃないものとして退けられ、時には叱責の対象になりますね。

 

まあ僕自身、何かに取り組むときは、けっこう「クソ」がつくほどまじめ(というか、まっしぐら)に突き進むたちなので、まじめを美徳とする価値観にはわりと親和性が高いのです。

 

ただ、何かを「学ぶ」場面において、まじめという姿勢が常に美徳なのか?と考えると、実はそうともいえない面があるんじゃないかと、最近は思うようになりました。

 

いや、まじめがダメっていいたいわけじゃないですよ。

でも、「まじめ」を至上の美徳としていると、かえって学ぶことを妨げるような状況にはまりかねない、そういう側面もけっこう大きいな、と、そんなふうに思うわけです。

 

少し時間が経ってしまいましたが、7月13日に朝日カルチャー新宿で行われた、システマというロシア武術の指導者である北川貴英さんの呼吸法講座に参加しました。

武術の指導者による、呼吸法の講座。
通常、呼吸法のレッスンというと、「リラクゼーション」のようなテーマが掲げられることが多いわけですが、そういうヒーリングっぽい感じとは、少し方向が違います。
根底にあるのは、敵と相対して命さえも狙われるような、非常にストレスフルな状況においても、からだのリラックス状態を保つ(そうすることでパフォーマンスのレベルを保つ)ことの必要性。サバイバル技術としての、呼吸法です。

いろいろなことやって、非常におもしろかったのですが、なかでもひとつとても印象に残ったのが、こんなのでした。
「呼吸法」という言葉とはちょっとニュアンスが違うんだけど・・・まあそれは気にせず。

一人が床に大の字に横たわり、その手足を3人ぐらいでしっかりと床に押さえつけます。
3対1。しかも手足をがっちり抑えられている。
抑えられた方から見ると、みるからに、圧倒的に、不利な状況です。

で、そこから「はい、逃げ出してください」といわれる。

するとまあ、最初は逃げられないわけです。

ところが、北川さんはさっさと脱出してみせるわけですね。

で、、どうやればいいのか、という話になる。

普通は、3人に手足を抑えられるという状況になっただけで、頭のどこかで「ああ、だめだ」と判断してしまうんですね。
それでまず、体の動きに制約(ブレーキ)がかかってしまう。
100%のパフォーマンスができなくなってしまうのです。

仮に抵抗を試みたとしても、たいていの場合、抑えられているポイント(二の腕とか、太股の辺りとか)に力を入れて、そこを押し返そうとがんばってしまう。
そういうがんばり方では、全体重をかけて抑えている相手の力を振りほどくことはできない。

ところが、その状況において、ゆったり呼吸しながら、はたして自分のからだは完全に身動きとれないのか?と点検していくと、実は動かせる場所がいっぱいあることに気がつくのです。

例えば、手足の指は簡単に動きます。手首、足首も、動く。
首も動きます。
さらに(これが大事)、腰をひねるような動きも、かなり自由に動くのですよ。

「なんだ、思ったより全然自由じゃないか」って気がつくわけですね。

ということを確認した上で、抑えられて動かないポイントのことは放っておいて、動くところ(特に腰=体幹部)を動かしながら、体をひねったり曲げたり反らしたりすると、思いのほか簡単に、胴体が横向きとか、うつぶせになるところまでいけるのですね。
そこまでいけば、ひざを引きつけて、体を起こすのは、わけのないことです。

で、その過程で手や足を一生懸命抑えていた3人は、ズルズル引きずられてその辺にひっくり返ってしまう。

起きてみて、「あれ、抑えられてたはずだよな?」って思うぐらい、たいした抵抗もなく、まるで朝、目が覚めてベッドから起き上がるときのようにごく自然に起きられてしまう。
いや、ほんとなんですよ。

何がいいたいかといいますと・・・

「まじめ」っていう言葉の意味の中には、「ルール(規範)に従う」という要素が含まれています。
その場を支配している決まり事を尊重し、それに逆らわないように振る舞っているわけです。

そして「ルール」ないし「規範」の中には、たいてい「これをやってはいけない」という禁止事項が含まれています。

で、そういう事項を認識しているのは、頭の作用。

つまり、頭が、からだの振る舞いに対して、「これをやっちゃいかん」とブレーキをかけるわけですね。

そうやって頭の判断が体に抑制をかけることが、しばしば体のパフォーマンスを下げている。

北川さんの講座での体験が、それを示しています。
「3人に抑えられた」という状況は、「圧倒的不利」という状況判断をもたらします。
それは規範というわけではありませんけれど、「こりゃあ逃げられないよ」という判断が頭の中を占めることによって、「抑え込まれた人」として振る舞うように(つまり抑え込まれ続けているように)頭がブレーキをかけてしまうのです。

さらに、、、「まじめ」という言葉の中には、まっしぐらというか、目の前の状況に対して真正面から相対するようなニュアンスも含まれています。

それはまあ確かに、ある種の潔さを感じるすがすがしい印象の姿勢ではありますが、ものの見方や、捉え方、振る舞い方が一面的に固定されてしまうという面も否定できない。

北川さんの講座の例でいうと、抑えられている部位を押し返そうとする意識は、ある意味でとても「まじめ」な対応といえるでしょう。

でも、、、ちょっと視点をずらして、抑えられている部位以外に意識を向けてみると、、、そこにさまざまな可能性が残っているわけです。
なにも抑えられたところをクソ真面目に押し返さなくても、体を動かしてその場から逃れるための道は、ほかにもいろいろとある。

ところが、、、抑えられている部位にばかり意識が集中してしまうと、その可能性に気がつかなくなってしまうのですね。

そうやって、自分で自分の動きを制約してしまう。。

さて、ここまでの文章を読んで「なるほど」と何かしら納得された方もいると思います。

そう思った人は、僕が説明している内容を理解したと思っていることでしょう。

僕も、北川さんにこんな説明をされたときに、「うん、なるほど、わかった」と思ったのですよ。

でもね、、、

実際に体の動きを通して、「おおっ、なるほど、本当にそうだ!!」って思ったときの「なるほど」は、頭で思った「なるほど」の何倍も、いや、何百倍も強い「なるほど」なのです。

それで、、、

「学ぶ」とか、「技術を習得する」といった場面全般において、「まじめ」という姿勢が体にブレーキをかけている側面が、意外と多いように思うのですよ。

それが、可能性を狭めてしまったり、パフォーマンスを下げていたり。

で、、この文章の最初に、「まじめ」の逆の意味として、「不まじめ」「いいかげん」という言葉を挙げました。

まあ、ふまじめはちょっと置いといて・・・

「いいかげん」っていう言葉に注目してみます。

この言葉は実に不思議な言葉です。

現代の日本語に置いては、たいていはネガティブな意味合いで使われると思いますが、よく見るとこの言葉は「良い加減」、つまり、何かのバランスがちょうどうまくとれた、いいあんばいの状態を示しているわけです。

ということは・・・・「まじめ」が過ぎると、「好い加減」を外しかねないのですよ。

じゃあ、まじめが過ぎないためには何が必要なのか。。

たぶん、「遊び」だと思うんですね。
学ぶときや仕事をするとき、何かを達成しようとしてがんばるとき、そこに「遊び」的な要素が「いい加減」で含まれていることが、たぶんとても大事なんじゃないかな、、と思います。

ライオンとか、キツネとか、狩りをする動物の子供はよく、兄弟でじゃれ合って遊びながら狩り技術を学んでいますよね。
あれは、学ばなきゃいけないことが多い成長段階(つまり子供のとき)は、自然に遊びたくなる性質を帯びる、ということなんだろうと、僕は解釈しています。
まあ人間もそうですよね。子供は遊びが大好きです。だからいっぱい学べる。

あそぶことで、頭の体もゆるみます。
たぶんそういう身体状況であることが、とても大事なんです。

北川さんの呼吸法も、「追い込まれたときにいかにリラックスしていられるか」がテーマでした。

「まじめ」一辺倒では、頭も体も固まってしまう。

いやこれは、自分自身に一番必要なことなんですよ。もちろん。

おっ、もうこんな時間だ。

さて、ライブに備えて、少しギターで遊ぶことにしよう。