怒りがこころに取り付くメカニズム

昨日の続き・・・

 

今日は、「怒り」って何だろう? というテーマで行きたいと思います。

とりあえず、どんなときに、心の中に怒りが湧いてくるか、考えてみましょう。

「怒り」という言葉がもしピンと来なければ、「腹が立つ」とか「頭に来る」とか「むかつく」とか「イラッとする」とか、そういう言葉でイメージしてみても構いません。感情の中身は、どれもだいたい一緒です。

そんな感情がどんなときに生じるか、いろいろと思い浮かべてみます。

 

まあ、たいていは対人関係で出てくる感情ですね。

人の振る舞いが、何か気に障って、ムカッとする。

 

この「気に障る」気分になったとき、僕らの心の中(ないし頭の中)で何が起きているのだろうか、というのが今日のトピックです。

 

多くの場合、人の振る舞いが気に障るときは、事前に自分の頭の中に「ここでこの相手はこうするはずだ」とか「こうあらねばならない」「普通、こうだろう」といった、相手の振る舞いに対する期待というか、自分なりの見通しを持っていると思います。
ところが、意に反して、相手はそうやってくれない。
こっちの意図をわかってくれないとか、動きがやたら鈍いとか、いうことを聞かないとか、バカな失敗ばかりするとか、手は一応動いてるけれど頭の中は軽蔑されているように見えるとか・・
それで、ムカッとする。「怒り」が湧いてくるわけです。

これって、精神作用としてはかなり高等な働きといえます。
なぜかというと、そこに「未来予測」的な作用が関わっているから。

相手の振る舞いの先行き=未来の姿を予測するのは、人間の大脳皮質が行う、とても高度な精神作用です。
人間が、現在の繁栄(まあ多くの問題は内包していますが、とにかく今この瞬間に個体数が地球上で爆発的に増えているのは事実なので、繁栄と呼んでおきます)を達成したのは、この「未来予測能」によっている部分がかなり大きいといえます。

例えば、動物が集団で狩りをする状況を考えます。相手はまあ、シカみたいな動物の群れとしておきましょう。
今の世界で、集団で狩りをする動物といえば、ライオンやオオカミが代表的ですね。
一方、例えばチーターなんかは、単独行の狩りをしているようです。
このとき、チーターのように単発で追いかけてスピード勝負(ないし持久力勝負)を挑むより、追い立てる役と、待ち伏せする役に別れて、仲間が待ち伏せしているエリアに追い込むことができれば、狩りの効率は相当良くなるはずです。
こういうのがまず、ひとつの未来予測。
オオカミは実際、そういう狩りをしているそうです。つまり彼らは、こういう未来予測ができる。

でもオオカミは、例えば槍を投げることはできません。
それは「手がない」という現実問題もさることながら、手元にある槍という物体が、手から離れたあとにたどるであろう軌跡(未来の姿)を予測できないのです。そこまでの知能はないらしい。
人間はそれができる。だから槍という道具を使いこなせます。
たぶんこっちの未来予測の方が、知能としてより高等とされるレベルを必要とするのでしょう。

人間の場合はさらに、槍を使う狩りの現場をイメージしながら、槍を作ることまでできるわけです。
そして、相手がシカの場合とマンモスの場合で、槍の大きさや形を変える工夫を施したりする。魚を捕ろうと思ったら、槍(銛)より網の方が効率がいいな、などと考える。
ここまでいくと、そうとう高度な予想といえるでしょう。

こういう未来予測という方向の知能において、人間が飛び抜けた能力を持っているから、人間は今のような文明を築きあげ、繁栄を遂げることができた。
これは間違いのないことです。

オオカミは相当かしこい生き物なので、狩りの中で一部見来予測的な行動をしているわけですが、それでもその予測の対象は、狩りという局面における獲物の動きに限定されているように見受けられます。

というわけで・・・人間以外の動物は基本的に、先のことを心配したり、期待したりといった生き方をしません。
いま、ここに焦点を絞って、その場その場で生きていきます。

そういう生き方をしている生き物においては、「相手の行動が期待を裏切ったからむかついた」という種類の怒りは、発生しないでしょうね。
この種の怒りは、人間が未来予測能という“高等な能力”を持っているから生じた、といえるでしょう。

で・・・高等だといばるのはいいんですけど、その期待感=「普通、こうなるだろう」という予測は、多くの場合、社会的な価値観や文化をよりどころにしているわけです。
文化的な規範を根拠に、相手の行動を予想し、そうなることを期待する。
ということは、その期待の根拠には、実のところあまり普遍性がありません。
日本人なら当然のように怒るであろう振る舞いを、アメリカ人は平気で受け入れる(またはその逆)というのは、いくらでもあることです。
たぶんみなさんも、そういう例をたくさん思いつけるでしょう。

文化的な差だけではありません。
特定の個人のこころの動きだけをみても、そのときそのときの、その人がおかれている環境や心身の状態によって、期待の内容や強さ(結果として「怒り」の強さ)は大きく変化します。

実は、僕は今この文章を、サイパン島のリゾートホテルの一室で書いています。
いやまあ、たまたまバカンスで来ているんですけど。
ホテルの裏はすぐビーチで、目の前の窓の向こうには、白い砂と緑色の珊瑚礁の海、南国の青い空が広がっています。
心地よい風が駆け抜けていくビーチで、波の音を聞きながら、チェアベッドに寝転んで昼間っからトロピカルカクテルなんか飲んでいると、もう最高です。ははは。

で、そんな状況において、例えばホテル内の売店のレジで、自分の前に買い物をしている人が財布を出すのに手間取ったりして、決済にやたら時間がかかる、というできごとが起きたとします。
東京にいるときにもしそういうことが起きたら、たとえ特に時間が切迫している事情はなかったとしても、かなりイラッとするだろうと思います。
でも、いま僕が滞在しているこの空気の中でそういうことになっても、たぶんいらつきません。
のんびり待ちながら、空か海でも眺めて「あ~いいねぇ」なんてつぶやいていて、何の不満もない。

「怒り」を生み出すよりどころの価値観(そして期待)は、かくも不安定で流動的で、そのときどきに揺らぐものです。

なぜかというと、その怒りは、「未来予測」という“高等”な能力に依っているから。
予測のよりどころが流動的だから、予測がはずれたときの気に障り度合いも、決してソリッドなものとはいえないのです。

ということで、、、その怒りの中身の妥当性(レジで待たされたことに対して怒りを込めて抗議することの正当性)も、まあ多くの場合、所変わればいくらでも変わりますといった程度のものなのですね。
リゾートビーチにいれば怒らなくても全然問題ないような状況に対しても、東京にいるから、つい、イラッと来てしまう。

その日そのときを「いま、ここ」ベースで生きている多くの動物は、こういう不安定な怒りに苛まされることはないでしょう。
何も予測しないし、期待もしないから、怒りが湧くこともない。

こんなふうに考えると、どっちが高等なのかよくわからない気もしますね。

・・・いま、たまたまですが、ちょっとおもしろいことが起きました。
ホテルの電源が、何の予告もなく、いきなりダウンしたのです。
コンセントの電気はもちろん、水道も、クーラーも、電話も、ネットの無線LANも一気に停止してしまいました。

スタッフの人に聞いたところ、館内の電気設備の調整かなにかをやっているらしく、復旧するまで2時間ぐらいかかるらしい。

もし東京でこんなことが起こったら、大騒ぎですね。
せめて事前の予告ぐらいしておいてもらわないと、世の中が大変なことになる。

でも、今ホテルの中は実に平穏な空気が流れています。
僕の心の中も、いたって平静。
「まあ、しゃーないなー、サイパンだし」
そんな感じで、みんなのんびりやり過ごしています。

ま、電気や水道は止まっても、海の眺めは変わんないよ。そんな気分。

状況次第で、自分の心の中の怒り基準がこんなに変わるというのを、身を以て実感してみるのも、なかなか得難い経験です。

で・・・この先がちょっと大事なところで。

人間の怒りを生み出す期待感(価値観)のベースは、このように不安定で流動的で、確たる基盤とはとてもいえないようなものなのですが、ひとたび自分の中に怒りが込み上げてくると、そのベースが自分の中で固定されて膨張していく感覚があります。
すると、これぞ絶対的で決して揺らがないもののように感じられてしまう。
端で見ると「あんなことであそこまで怒らなくてもいいじゃない」って思えるようなことが、本人に取っては人生を左右する一大事ほどにまで感じられるのです。
そういうことって、よくありませんか?
自分が渦中にいるときは不思議なほど気づかないのですが、端から眺めていると、「そこまで怒るかなぁ~、ごめんって言っときゃいいだけなのに」ぐらいにしか見えないことって、よくあると思うのですよ。

こういうのって、どうして起きるんでしょうね。

ここでちょっと、動物の世界における、怒りの起源を考えてみます。

まだ未来予測能を獲得していなかったころの人類の祖先も、なにかしら怒り的な感情を持っていたはずです。
その感情と、未来予測能が合体して、ここまで見てきた今の僕らの怒りが出来上がった。
で、祖先が持っていた怒り的感情は、現代においては、人間以外の動物の中に認められるはずです

じゃあ、人間以外の動物が、いかにも「怒っている」ように見える状況って、どんな場面でしょう。

とりあえずぱっと思いつくのは、こんなところでしょうか。

・縄張りへの侵入者に対して攻撃をするときの姿。
・雄同士が、雌を争って戦っている姿。
・えさを横取りしようとやってきたほかの個体を威嚇する姿。

これらをひとことでまとめると、「自分の所有物を侵す相手に対する怒り」といえるでしょう。

いやまあ、動物たちがこういう場面で本当に、僕ら人間が感じているのと同じような怒りを抱いているのかは、わかりませんよ。聞いても答えてもらえるわけじゃないし。
でも、こんな状況において、さまざまな種類の生き物(ほ乳類、は虫類、魚、昆虫などなど)の姿や態度を見ていると、あたかも怒っているかに見える振る舞いをしていると思うのです。
なので、きっとこういうのが、人間の怒りの起源なのだろうと思うわけです。

もちろん、人間にもこういう怒りはあります。
子供が、ほかの子にお気に入りのおもちゃを取られてけんかするのなんかは、こういう怒りですね。

さっきの「未来予測から出てくる怒り」と比べると、文化的価値観への依存度が少なくて、より実体的というか、リアリティーのある喪失が怒りを呼んでいるような気がしますね。
より野生っぽいというか、動物的な怒りのような感じがすると思います。

この「実体的な感じ」をさらにもう一歩強めると、次のような“怒り”になります。

・自分を攻撃する相手への怒り
・自分の命が危ういことへの怒り

さっきは「自分の所有物」を失う怒りでしたが、ここでは、「自分のからだ」「自分の命」を失う怒りです。
自分のからだをえさにしようとして襲ってくる敵への怒りとか、灼熱の中で自分のからだが熱くなって命が危ういことへの、怒り。

怒りというより、「恐怖」と呼ぶ方が、意味的にはぴったり来ると感じられるかもしれません。
でもほら、「恐怖」の中には、「怒り」が含まれているでしょ?(笑)

生き物の世界における怒りという感情の起源は、おそらくこういう、命の危機が迫ったときの興奮状態だったんだろうと思うわけです。

例えば、ミミズの姿を思い出してください。
夏の暑い日に、雨が降ったとします。
そんなとき、土の中のミミズがよく地表に出てきますよね。
そして雨に流されるか、自分で動くかするうちに、アスファルトの上に出てきてしまう。
その後、雨が上がって暑さが戻ってきます。アスファルトもみるみる乾く。
その上に、ミミズが取り残されてしまいました。

そんなときのミミズの姿、見たことありますか?

どんどん熱くなっていくアスファルトの上で、飛び跳ねるようにのたうちながら、涼しいところ、土か水があるところを求めて激しく動き回ります。
あの姿は、僕の目には、ある種の「怒り」に見えます。

つまり、今の人間の精神性より原始的な段階において、怒りは、生命の危機と直結した激しい衝動だった。

こういう追い込まれた状況では、からだの興奮や緊張と、こころ(のルーツに相当する何らかの内的世界)はほとんど未分化といえるでしょう。
からだの緊張とこころの興奮が、渾然一体として身体の中を駆け巡っているような状況です。
また、「痛み」のような感覚刺激とも分ちがたい感じだったに違いない。

そんな極限状況下で、なんとか生存確率を高めようとしてもがき、のたうち、奇声を上げ、跳ね回る。
自分が助かろうとするためのからだの興奮や緊張といった作用がそのまま、その生き物の内面において、何らかのテンション感を形成したのだと思います。

これは、後々の人間のからだのメカニズムとしては、交感神経系の働きと結びついているでしょう。
心身の緊張度を高めて、迫りくる危機から逃げる、または戦うためのシステムです。
このシステムのスイッチが入ったときに、生き物の内面で、ある種のハイテンション感が発生する。

そういう感覚が進化の過程で受け継がれ、ずーっと末裔にあたる人間の心の中で未来予測能と結びついて、「怒り」としてとらえられるようになった。
たぶん、そんな流れだと思うのですね。

だとすると・・・そういった歴史の帰結として、今、僕らが感じる「怒り」の中には、生命の危機をにおわせる切迫した感覚が、根底に含まれていると思うのですよ。
たとえ、レジでちょっと待たされてイラッとしたという程度の、南国リゾートに行けばそんなもの感じなくなるよというような成り立ちの怒りでも、ひとたびそれが怒りとして起動してしまうと、その中には、生命の危機をにおわせる歴史的な危機感が宿っている。
そこで立ち上がる交感神経系などのからだのメカニズムが、危機感を呼び起こすのです。
灼熱のアスファルトの上で、命がけでのたうち回るミミズの内部に生じた切迫感と同種の感覚が、むくむくと頭をもたげてくるのです。

だから、心の中に怒りが生じた人は、その怒りに取り付かれてしまう。
生きるか死ぬか的な切迫感を感じてしまう中で、「まあいいか、これくらい」みたいな余裕を持って状況を見渡すことが、できなくなってしまうのです。

さらにもうひとつ。

ミミズの場合は、のたうち回った結果、運良く土の上に逃れることができれば、切迫感はすぐに収まります。
縄張りからライバルを追い出そうとしてテンションを高めたトゲウオも、ライバルが去れば、すぐテンションを下げるでしょう。

でも・・・未来予測をベースにした怒りは、そう簡単に収まらないのですね。
なぜなら、未来予測は脳内現象なので、実体ベースの現象と乖離したところで、どこまでも妄想として暴走できるのです。
「いま、ここ」を離れた思考ゆえに、いまここの出来事と無関係に、いくらでも夢想が続けられる。
すると、怒りも、どこまでも収まりがつかなくなるのです。

とまあ、そんなわけで、、、対人関係でイラッと来た程度の、現実を冷静に見れば実にささやかな怒りだったものが、気がつくといつの間にかこころ全体を覆って、自分のこころに取り付いてしまう。
そして不快感を増幅する。
そんな現象が、実際に起きてしまうわけです。

こんなのが、“高等”な知性を持つ人間ならではの、怒りの正体。

さてさて、お話しにはまだ続きあるのですが・・・

ずいぶん長くなってしまったので、とりあえず今日はここまで。

このあとは、こういう「怒り」と、からだの関係について考えてみたいと思います。