生物多様性というお題目について思うこと

生物多様性をテーマに据えた国際会議が目前に迫っているということで、テレビが急に環境志向の動物番組をたくさん流し始めた。

 

まあ、そういう映像を見るのは好きなので、番組が作られること自体は個人的に好ましく受けとめていますけど。

でもねえ、、この種の話になったときにいつも鼻につくのが、「地球を守ろう」「自然を大切に」みたいなスローガン。

そんなねぇ、守ってもらわなきゃいけないほど地球は人間に依存してないよ。 依存してるのは人間のほうでしょ? ・・・

 

なんて思っていたら、「オルタナ」というちょっととんがった雑誌の10月号にサッカーの岡田前代表監督のインタビューが載っていて、その中に思わずひざを打った名言をいくつも見つけたので、ここでちょっとだけ紹介します。

 

「地球環境が大変だといっても、実は地球は全く平気で、人間が大変なだけです。地球というのは誕生以来、どんどん変化していくもので、それに適応していくのが、僕ら生物なのです」

「(地球環境の変動を)スローダウンさせる活動が一般的に環境活動と言われています。僕はそれも大切だと思いますが、逆に、人間や社会が地球環境の変化に適応していくのも、立派な環境活動だと思います」

「ある程度の「生物の淘汰」が来るかもしれない。そのときに、日本人は一番に絶滅してしまうのではないか。そのためにも、適応できる日本人を作って行かなければなりません」

 

話はこのあとさらにおもしろくなるので、興味を持った人はぜひ読んでいただきたいと思います。

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まあそれはそれとして。。

「地球を守る」「環境を守る」というたぐいの言葉が僕の耳にはどうにも空文に聞こえてしまう理由の一つは、「地球環境」というものがあたかも自分と隔てられた壁の向こうに存在していて、そこで何かかわいそうなことが起こっているから助けてやろう、という態度が透けて見えるからだと思う。
だけど、人間の身体は、地球環境と切り離してしまうと、まともに機能できないようになっている。

つながりの一つはもちろん、食物連鎖
人間が生きるために口に入れるものはすべて、元をたどれば生き物。
農業や畜産が製造業的に生産管理され、食卓に並ぶ工場製加工食品の割合がきわめて高くなった現代でも、すべての食べ物は元をたどれば生き物の営みにたどり着く。
(化学合成した添加物や薬品、混入してくる農薬その他のケミカルな成分は生き物由来ではないので例外。そこはものすごく重大な問題だけれど、今日のところはその話題はパス)

そして、食べた結果として出すもの=糞尿はまた、ほかの生き物のエサになる。
これも、水質管理が科学的(風)に行われている現代でも、本質は肥だめのころとそう変わっていない。排泄物を食べて土に返してくれる仕事は、バクテリアがやってくれる。

そういう連鎖から切り離されたところで、人間は生きていけない。
食品工業がどれほど優れた技術を売りにしても、生き物以外のものから出発して作られた食品は、いまだ存在しない。

だけど、それだけじゃない。

人間の身体機能そのものが、かなり自然環境に依存する・・・というか、まわりに自然環境が存在することを前提にした形で設計されている。

たとえば・・・よく言われるのは、「足は第二の心臓」という話。
歩くときにふくらはぎの筋肉が伸縮して、血管をポンプのように圧迫し、体内の血流を維持しているという。
血を巡らせる臓器というとすぐに思いつくのはもちろん「心臓」だけれど、心臓だけでは特に下半身に血流が滞ってしまう。

これが、「歩くことが健康にいい」と言われる理由のひとつだけれど、よく考えればこれは本来、ちょっと違う話。
歩くと健康になるのではなくて、人間の体は歩くことを前提に作られているのだ。

現代人とほぼ同じ体格の人間が地上に生まれたのは数十万年前のことだけれど、そのころから比較的最近(数十年前ぐらい)まで、人間は一貫して「歩く生き物」だった。
以前、人類学の専門家に聞いた話では、平原で暮らしていた人類の祖先は、生きるために毎日少なくとも数十キロぐらいは普通に歩いていたらしい。
いまでも地球上のどこかには、そういう暮らしをしている人間がまだいると思う。

仮に1日50kmとしよう(たぶんこれは控えめな数値)。歩幅を70cmと仮定すると、7万歩を軽く超える。実際には10万歩ぐらい行くことも多いだろう。
現代人が目標にしている1日1万歩とはちょっとレベルが違う。
ここで大事なのは、彼らは、健康のために歩数計の数字を増やそうとがんばったのではないということ。
自然環境の中で生きていくために(食べ物をとったり、食べられないように逃げたり、という活動として)このぐらい歩くことが必要だったから、当然のごとく歩いたのだ。
そしてそれくらい歩くのが当然だったから、カラダのしくみも、それぐらい歩くことを前提に設計した。
それが「ふくらはぎは第二の心臓」の由来。
そうでなければ、そんなしくみの生き物になっているはずがない。
現代人のような、1万歩でさえ努力目標として難しいと感じるような暮らしぶりの生き物であれば、1日10万歩歩くことを前提の体をもらっても、役に立たないでしょう?。

にもかかわらず、現代人は1万歩も歩かなくなってしまったから、メタボになっているわけだけれど。

ちなみに、心臓の拍動も計算すると、1日にざっと10万拍ぐらい。つまり、自然暮らし時代の人間の1日歩数と大差ない。
これなら「足は第二の心臓」という言葉も、リアリティーを感じられると思う。

リラックス音楽の世界でよく言われる「1/f揺らぎ」なんていうのもそう。
あれは、そういう揺らぎが人体に特殊な効果をもたらすわけじゃない。
自然界にごく当たり前に存在する風や波の音、梢がゆれるリズムなどは、それが当たり前に存在するがゆえに、人間の五感や神経系はそれを当然の前提として設計されている。
そういう設計だから、そういう要素が乏しい環境(人工的な環境)では、むしろストレスと感じてしまう。
だから、たまに自然が含んでいるそういう性質(1/f揺らぎ)を帯びた音などに接すると、リラックスできて気持ちよくなる、というお話。

こういうたぐいのしくみって、実は生物界にはけっこうよくある。
自分のまわりの自然界に存在する刺激や環境などをビルトインする形で、自分のカラダのしくみを作ってしまうやり方。
その刺激や環境が存続する限りはうまくやれるんだけど、環境が壊れてしまうと、生き残るのが意外と難しい。
もともとが、特殊な環境にうまいこと適応していたケースほど、環境変化に弱いといえる。

こんな見方をすると、「環境」と「身体」は実は地続きらということがわかる。

だから、環境とは弱者のように守る対象ではない。
それが維持できるかどうかが、直接的に、自分の身体(例えば健康)に直結している問題なのである。

このことをどれくらいリアルに実感しているかによって、いわゆる環境問題と言われるテーマに対してとる態度は、全然違ってくるように思う。

僕には、「温暖化で北極の氷が溶けたら白熊が絶滅しそうだからCO2の削減を」みたいな論調は全然ピンとこない。
氷が溶けたら、白熊は、陸で出産・子育てをする方法を身に付けるでしょう(というか、そういうやり方を身に付けた白熊が生き残っていくでしょう)。

でも、温暖化も含めた環境の変化が、人間の体をスポイルしていることは間違いないと思っているし、そこには多いに危機感を感じている。

生物多様性」というキーワードで森や海の映像を並べた番組ばかり出てくるテレビを眺めていて、ちょっとひとこといいたくなったのでこんなことを書いてみた。
最初にも書いたように、森や海の映像を眺めていること自体は僕の好みなので、番組そのものにはさほど問題を感じていない。
生物多様性」というお題目が、そこにしかつながらないという発想の多様性の乏しさに、ちょっとひとこといいたかった。それだけ。