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劣等感がめんどうなものに転じるとき

こころ

劣等感。

だれでも何かしら抱えています。

いい意味合いで使われることは、あまりない言葉です。

 

でも劣等感は、人が成長する上で大事な働きをしているようにも思えます。

スポーツ選手や、経営者のインタビューなどで、「劣等感をバネに頑張りました」といった言葉がしばしば出てきますよね。

 

たとえば、まだハイハイしかできない赤ん坊は、二足で歩く周りの大人たちを見て、何を思うでしょうか。

自分にはまだあればできない、でもできるようになりたい、なんて思うんじゃないでしょうか。

で、そう思うから、練習をする。

そういう気持ちが、歩けるようになるためには必要だろう、と。

 

この文脈において、「劣等感」は単に、比較認識の感覚です。事実関係として、「あ、自分の方が下(ないしは後ろ)にいる」と知覚するわけです。

それが、自分より上(ないし前)の存在に対する、憧れのような心理を生む。

そこから、上ないし前を目指す意欲(エネルギー)が湧いてくる。

 

実際、「あんなふうになりたい」という気持ちがなければ、成長とか挑戦という意欲はなかなか湧いてこないでしょう。

そして、「あんなふうになりたい」という気持ちには、「自分は(まだ)あんなふうではない」という認識が含まれている。

それは確かに、劣等感と呼ぶしかないものです。

 

ただ、、、、現実の中で僕らが劣等感という言葉を意識するとき、それはあまりエネルギーの源になってくれない。

それどころか、エネルギーを奪っていくように思える。

むしろ、こんなふうに実感している人の方が、きっと多いですよね。

 

 

劣等感がこじれて人の意欲を奪うような状態になったものは、心理学用語で「劣等コンプレックス」といいます。

日常的な日本語では、単に「コンプレックス」と呼ばれることも多いです。

 

さて、、劣等感が劣等コンプレックスに転じるのは、ひとつ別のエッセンスが加わるから。

それは何でしょうか。

 

それは、劣等感という事実認識に、「私はかわいそう」「どうせ私なんか」「私なんかいてもいなくても一緒」といった、自分の価値を卑下する心理。

こういうものが加わることで、劣等感が、劣等コンプレックスに転じます。

 

自分より優れた何かを持っている(と自分が感じる)人が、傍にいるとします。

「優れている」と感じた時点で、すでに劣等感は発動しています。

だって、「優れている」と感じるということは、その性質なり能力なりに対する憧れが自分の中にあるにちがいないから。(憧れがなければ、単に「この人は自分と違うな」と思うだけです)

 

憧れる何かを持っている人が傍にいるのだから、じっくり観察するとか、教えを請うとか、「すごいねぇ〜」と言ってみるとか、何かしらそういう憧れを表明する方向のアクションを素直にすればいい。。

 

・・・はずだけれど、なぜか「ふん、どうせ私なんか」という気持ちが出てきたりします。

めんどくさいねぇ。これが「劣等コンプレックス」。

 

つまり、めんどくさくなるのは、「私が劣っている」からではなく、「私には価値がない」という心理が心のどこかにあるから、です。

 

劣等感(正確には劣等コンプレックス)にさいなまされることがあった場合、僕らの意識はたいてい、その「劣っている」と感じる要素の方を向きます。

そして、それをなんとかしたいと思う。

でも、それは、向いている方向が違うのですね。

 

問題は、劣っていることそのものじゃない。

劣っている自分を、価値のないものと捉えてしまうことの方です。

 

「どうせ自分なんか」という感覚が心のベースにあるから、比較認識のたびにいちいち面倒なことになるのです。

 

「生きてるだけでまるもうけ」って、思えればいいのです。

 

僕は最近は、そんな時、よく脈を取ってみます。

脈拍がばくばくいってる感触に指で触れて、しばらくそれを味わってみる。

 

そのうち、「ああ、生きてるんだなあ」っていう気分が、じわーっと湧いてきます。

 

文字に書くとバカみたいな話だけど(笑)、実感として「おおっ、心臓すごいなぁ」っていう気分になるんです。

するとなんとなく、「いやいや、オレもなかなかなものかもしれないぞ」って気分が出てきたりする。

まあ、ある意味、本当に単純なものです、人間の気分なんて(笑)