糸井さんの「ジャイアンツ愛」と、動的平衡と、ナウシカの世界
糸井重里さんがやっている有名なサイト「ほぼ日イトイ新聞」。
その中で、久々に、田口壮選手のインタビューが始まっている。
元々はオリックスでイチローの同僚。その後メジャーに渡り、セントルイスカージナルスで名将ラルーサのふところ刀としていぶし銀の活躍、ワールドチャンピオン達成にも貢献した。
フィリーズを経て昨年はオリックスに復帰。肩の手術を受けて、いまも現役続行を模索中・・・
といったお話は、インタビューに出てくるので、ぜひ読んでいただくとして・・・
毎日少しずつ更新されていくインタビューの中、今日更新された分の途中で、非常に興味深いお話が出てきた。
これは田口さんの話というより、糸井さんの話。
以下引用___
田口 話を聞いてると、糸井さんは、
個々の選手が好きなわけではなく
「ジャイアンツ」が好き。
糸井 そうみたいです。
するとね、じゃあ、ジャイアンツってなに?
ってことになるんです。
田口 なりますよね。
糸井 そこは何度も何度も考えます。
つまり、選手のユニフォームを
ぜんぶ入れ替えちゃって、
たとえばフィリーズとまるごと取り替えっこして、
どうするんだろう、とかね。
田口 極端にいえば、
ジャイアンツのユニフォームを着た人が
プレーをしていれば、それでいいわけですね。
糸井 そういうことになるんですよ。
_____
これ、わかりますよね?
糸井さんは自他共に認めるジャイアンツファン。金にものを言わせた大補強に「さすがにどうよ」と思ったりすることもあるものの、ゲームが始まるとやっぱりジャイアンツを応援しているという。
ただ、それだけ補強してるということは、中の選手は入れ替わっているわけで、かつて応援していた選手が敵になったり、かつて敵としてジャイアンツを苦しめた選手がいつの間にかジャイアンツに入ってくることもよくある。
さらにいうと、どんな選手もいつかは引退するので、長年応援していれば、中の選手はいずれ、どんどん入れ替わっていくことになる。
これは何も、ジャイアンツに限った話ではない。
どのチームも選手の入れ替わりは常に生じている。
ということは・・・「ジャイアンツ愛ひとすじ」のように応援している糸井さんのような人は、結局、何に向かって応援しているのだろう?という疑問が生じる、というわけだ。
以前、田口選手が戦っていたメジャーリーグは、日本のプロ野球よりはるかに選手の移動が多い。
いや、野球だけじゃない。アメリカのプロバスケットやフットボールも、かなり頻繁に選手が動く。
それぐらい、チームを構成する選手が流動するのが、プロスポーツの世界。
選手だけじゃありません、監督やコーチも動きます。
つまり、チームを構成する実体(選手、監督など)は、常に変化している。
十分な時間がたてば、いずれすべての実体要素が入れ替わってしまう。
継続されているのは、ロゴマークとか、ユニフォームだけだったりする。いや、へたするとそれも変わる。
でも、多くのファンは特定のチームを継続的に応援する。
日本のプロ野球はもちろん、アメリカのスポーツファンも、地元のチームに変わらぬ声援を送り続ける傾向があるようだ。
で・・・それって何を応援していることになるんだろう?というのが、糸井さんの疑問となるわけです。
この話・・・実は、生き物の営みと、とてもよく似ている。
人間も含めた生き物の体は、ある瞬間、実体としていまここ存在している。
手で触れることもできるし、重さを量れば体重がある。
だけど・・・物質的な実体としてみれば、その生き物の体を構成する物質は、毎時、毎分、毎秒ごとに入れ替わっているわけだ。
細胞レベルで見ると、例えば皮膚の細胞は約1カ月周期で入れ替わる。
古い細胞は垢として脱落し、そのスペースを埋めるべく新しい細胞が生まれてくる。
その新しい細胞を作る材料は、もしかすると数日前までは別の生き物(ニワトリとか、大根とか)の体を構成していたものだったかもしれない。
分子レベルまでいけば、例えば骨のような一見ソリッドに見える構成要素も、新陳代謝サイクルの中でその成分をどんどん入れ替えている。
つまり、そういう視点で見れば、今この瞬間の「私」の体は、数年前の私と、何一つ共通するものがない、全くの別物になってしまっている可能性が高い。
まるで、選手全員をトレードで入れ替えた野球チームのように。
そんなふうに、内容要素はどんどん入れ替わっても、体とか、野球チームといった全体的な構造や機能は、あたかも定常的なものとして保たれている。
いやもちろん、よく見るとそれも徐々に変化はしている(生き物の場合は老化として表れる)。でも、大まかに同じような形状が、継続的に保たれる。
こういうのを、福岡伸一先生は「動的平衡」と呼んだ。
世界全体を、ダイナミックに変化する一種の流れととらえ、その中で流れを内部に取り込んで要素を入れ替えつつ、構造的な恒常性を保つ平衡状態として成立するような、半ば閉じて、半ば開いた系。生き物とはそういうものである、と。
プロ野球のチームも、まあそういうものだろう。
生き物の本質は動的平衡で、つまりダイナミックに流れていること(固定されないこと)にある。
定常的な状態(生き物の姿や機能とか、チームとしての戦力とか)を維持するためにこそ、そのダイナミズム(つまりものの入れ替わり)を止めることはできない。止めると、後は、朽ちるだけだ。
常に動いているからこそ、その働き(生きるという営み)をコンスタントに維持できる。
でもって、その動的平衡にあるチームのユニフォームには、継続的に同じロゴ(例えば「ジャイアンツ」とか)が印字されている。
それと同じように、“モノ”としてはすっかり入れ替わったはずの私は、数年前と同じ名前を名乗り、継続的な記憶を保持して、数年前から途絶えることなく続いているその名前を持つ人物としての人生(の続き)を生きている。
で、そこに名前がつくと、私たちのココロの中に、それをあたかも、固定的なモノとしてとらえる傾向が発生する。
その傾向が、自分に向いたのが「自意識」。野球チームに向けば、「チーム愛」。
たぶん、名前という概念を持たない多くの動物の内面世界には、そういう感覚はないのだろうな。
そういう感覚がない世界がどんな世界なのかは、人間である自分にとって、想像することも難しいけれど・・・
たぶん、ひとつには、「いま、ここ」だけを生きているってことになるんだと思う。
ものに名前を付けるという行為は、人間の知能の中では、「記憶」と深い関わりがある。
名前という一種の“タグ”がつくことで、そのもの(ないし出来事)を、記憶というデータベースに収納できるようになるからだ。
ものやことを「情報化」する、といってもいいだろう。
情報化とは則ち、固定化すること。
一度、情報という形に落とし込まれ、記録されたものは、その状態で固定され、もう変化しない。
いってみれば、動きのある状態の中から、一瞬の形状を切り出して写真に納めるようなもの。
いや、ちょっと違うな。何枚も同じものの写真を取ってその平均像を抽出するようなものか。
いずれにせよ、動きの中からある一断面を切りとって、とり出す。
そしてそこに、何か名前を付ける。「犬」とか、「ジャイアンツ」とか、「きたむら」とか。
そうすることで、その存在や現象は、記憶の中で、時間軸を貫く継続的なものとして在ることができるようになる。
そうなって初めて、過去、現在、未来がつながる。
過去の記憶が意味を持ち、未来予想に意識が向けられるようになる。
そうやって時間軸の中を、自意識を持って生きているのが、人間。
もちろん存在している実体そのものも、動的平衡な姿として、時間軸を貫いて存り続けてはいる。
つまり、どの瞬間にも、ジャイアンツという名前で呼ばれるところの野球チームは、存在している。
でもそれが、ひとつながりのジャイアンツというチームであると人間の脳が知覚し、継続的な愛を送れるのは、そこに「ジャイアンツ」という名前(記号、タグ)を人間が付けたからなのだ。
「風の谷のナウシカ」の劇画バージョンに、自分のことをナウシカの子供だと思っている巨神兵が出てくる。
ここで設定されている時代よりはるか昔、「火の七日間」という世界戦争において世界を燃やし尽くしたといわれる、巨大な人型をした人造生物だ。
最初、この巨神兵は「いま、ここ」的な世界を生きていた。
目の前に現れる不快な存在に向かって火を吐き、その対象が焼けて消えると、快感を感じた。
一方で、母と仰ぐナウシカの言いつけには従い、幼い子供のように甘えた。
ある段階で、ナウシカは巨神兵に、名前を与える。
「オーマ」という名だ。
その瞬間から、オーマの知能は飛躍的にアップする。
名前を得ることで、自らの存在の意味や周囲との関係を悟れるようになった。
これは、ものすごく深い意味を内包した設定だと思う。
そして、、、知能を得たオーマは、自ら「調停者にして戦士、そして裁定者」と名乗るようになった。
「裁定者」、つまり、善と悪を分かち、判ずるということだ。
そして彼は「戦士」でもある。だから悪と判じたものを攻撃し、滅ぼす。
「名前」には、世界を分かつ機能がある。
世界を動的な流れととらえるなら、そこには、存在としての「善」や「悪」はないはずだ。
あるとすれば、流れが「スムーズ」または「滞る」という状態の違いでしかない。
しかも、この場合にしても、滞り=悪とは決して言い切れない。
滞るというのは、速い流れから見て相対的によどんでいるということであって、そのなかにもゆっくりとした動きはある。
そして、ゆっくりした動きに適した動的平衡のあり方もある。
速い流れとゆっくりした流れは、大元ではひとつながりだ。
なのに、名前をつける生き物=人間は、たまたま自分にとって快適な動的平衡状態を「善」、不快な状態を「悪」と呼ぶ。
流れのある一断面を固定化してとらえるところから、善と悪が発生する。
それはいってみれば、微生物の活動を、人間の都合で「発酵」と「腐敗」に分けるようなものだ。
ここでも、一続きのものを分けているのは、名前。
そういう精神活動をベースに、人間的な「チーム愛」が生まれる。
こんなふうに考えると、人間って、、、ややこしい生き方を選んだ生き物なんだな~って思う(笑)
いやもちろん糸井さんも、ジャイアンツという名前を度外視したところでも、野球という営みを楽しんでいると思いますよ。
でも、ジャイアンツって言葉やマークが出てくると、途端に目の色が変わるんだろうな、きっと(笑)
さて、この先はほぼ余談です。
「風の谷のナウシカ」には、巨神兵と対照的な存在感を持つ、もうひとつの巨大な生物が出てくる。
名前もちょっと似てるんだけどね。それが「オーム」。
ただ、これは固有名詞じゃありません。「犬」や「クジラ」に相当する一般名称。
彼らは高度な精神性を持っているようで、ナウシカと念話を交わすことができる。
そして、ナウシカのことを、こんなふうに語る。
「ワガ一族ハ、オマエヲ昔カラ知ッテイルヨ」
これって、継続的な記憶があるってことですよね。
でも、ナウシカを「ナウシカ」と呼びはしない。
「小サキ者ヨ」と呼びかける。
どうやら、「ナウシカ」という名前を使って継続的な個体識別をしているわけではないらしい。
自分たち自身も、個体ごとの名前はたぶん、持っていない。
名前をつけない生き物が、どうやって、継続的な記憶を保持するの?
そこで興味深いのは、彼らにはそもそも個体の観念が、どうやら希薄なことだ。
一人称が「ワガ一族」になっていることが、それを象徴している。
そして、こんなふうに語る。
「ワガ一族ハ、個ニシテ全、全ニシテ個、時空ヲ超エテ心ヲ伝エテユクノダカラ」
一族として時空を超えて心を伝えているから、ナウシカという存在のこともその中できちんと覚えているよ、ということのようだ。
うーん、なんかちょっと仏教っぽいというか、なんか深い精神世界的なにおいがする。
この辺の感覚は、実はいま、とっても興味深いと思っているのだけれど・・・
残念ながら、現時点の私の言語能力(というか、言葉の裏打ちとなる精神性ないし身体性)では、まだきちんと説明できない。
ただ、ここまで書いてきたような、「世界を切り出して名前を付ける」というやり方とは違う、過去と未来をひと塊にいまの延長としてとらえるようなこころのあり方が、どうやらあるようだ。
「いま、ここ」と別に過去や未来を設定するのではなく、感覚的に「いま、ここ」が拡張して、はるかかなたまで覆ってしまうような、そんな精神性(ないし身体性)。
そういうあり方では同時におそらく、個人という感覚もシームレスになって他者とつながる感じになる。
それに、そういう感覚はたぶん、より「動的平衡」っぽい気もするし。
もしそういう感覚で見たら、スポーツ的なものを応援する姿勢も、いまとは全然違う感じになるのかもしれない。想像だけど。