だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

「誕生日おめでとう? 何がめでたいの?」

誕生日のあいさつといえば、「おめでとう!」が定番。

 

リアル人間関係でも、フェイスブックなどのSNSでも、誕生日には多くの人が、「おめでとう」という言葉を寄せてくれる。

 

ありがたいことである。

 

※あ、、ちなみに今日は僕の誕生日ではないからね。笑

たまたまそういう話を思いついたから書いているだけ。

 

まあ、いろんな人が自分に心を配ってくれているという意味では、ありがたい、、と感じるんだけど。

 

実は僕は子供の頃から、誕生日の何がめでたいのかよくわからない、と感じて生きてきた。

 

まあ、年齢が一つ加算されることは,子供ながらに理解してましたよ。

自分が生まれた日を起点として、そこから丸1年経ったときに、満年齢を一つ加える、という計算法は、理にかなっているからね。

 

そして、自分の年齢の数値が一つ増えることを嬉しいと思う気持ちは,子供の頃、確かにあった。ちょっと大人に近づいたような気がしてね。

 

だから、そのことを指して「おめでとう」というのかな、なんて解釈していた。

 

でも、そういう気持ちは、年齢がある程度進むと(たとえば十代も後半ぐらいになると)、あまり感じなくなってくる。

 

まあ、そのころになると、身長の伸び方もだんだん頭打ちになってくるからね。
「目に見えて成長する」という実感が、だんだん薄れてくる。

 

するともう、年が一つ増えたからって何がめでたいの? みたいな気分になっていくわけです。

 

いや、プレゼントとか,ちょっと豪華なお食事とかがでてくれば、それはもうありがたくいただきますよ、もちろん(笑)

 

でも、、そういうものに「ありがとう」とか言っていただきつつも、「誕生日? 何がめでたいんだろうね、まったく」みたいな冷ややかな気持ちが、ずーっと心のどこかにあった。

 

そして、そのまま大人になった。

 

大人のたしなみ,社会適応の一環として、誕生日やクリスマス、正月などに「おめでとう」などと挨拶を交わす習慣は、身につけた。

でも相変わらず、何がめでたいのかは、まったくピンとこないままだった。

だから、、たとえばフェイスブックで誕生日に、多くの人から「おめでとう」とコメントがつくと、、

 

「ありがとう」と返信はするわけだけれど、、、

 

そのやりとりが全くもって表層的というか、慣習的というか、通り一遍の儀礼以外の何ものでもない、という感覚で、単に作業としてこなしていた。

 

当然、だんだんやる気もなくなってくる。

だから、人の誕生日にあえて「おめでとう」と書き込むことも、だんだん減ってくる。

当然、「おめでとう」とコメントしてもらう数も、減ってくる。

でもまあ、そもそも何がめでたいのかよくわかんないわけだから、減ったからって何? 別にいいじゃん、みたいな気分だったのである。

 

、、、といった状況で、先日。

僕は、心屋仁之助さんの定期セミナー(Beトレ)に参加していた。

これは月1回行われる、講演会形式の定期セミナー。

仁さんのトーク→歌コーナー→質問コーナー(公開カウンセリング)という流れが定番。

歌コーナーでは、仁さん自作の、こころの悩みや人間関係をテーマにした歌を、ギター弾き語りで歌う。

その中で、必ず毎月歌う歌がある。

 

「お誕生日おめでとう」という歌だ。

 

youtu.be

 

この歌の時は、まず仁さんが「はい、今月誕生日の人は立って!」っていう声をかける。
そして、客席でパラパラと立ち上がった人たちに向かって、仁さんが歌いかける。そんな趣向だ。

僕の誕生日は6月だから、6月のBeトレの時は僕も立ち上がったんだと思う。よく覚えてないけど。

でも、立ち上がっていたとしても多分、「何がめでたいのかなぁ」みたいな冷めた気分を心のどこかに抱きながら、歌を聴いていたのだろう、きっと。

まあ6月のことはさておき。

今回は、11月のBeトレ。


この日、僕はファースティング(断食)の際中で、体の中のいろんなセンサーが敏感に冴え渡っていたようで、、、

どの曲でも、仁さんが歌う歌詞(言葉)が、実にこう、体に染み渡るように響いて、しみじみと聞き惚れていた。

 

そんな中で始まった、誕生日の歌。

 

「あなたが生まれてくれて

私と出会ってくれた

お祝いさせて、おめでとう

大切な、あなたへ」

 

今までいく度となく耳にして、ぼんやりと聞き流してきた、この、ある意味ありふれた言葉の列が、、、

 

突然、心情的な実感の固まりになって、僕の心の中に、飛び込んできた。

 

そうか。

生まれてきて、出会うことができた、

そのことがうれしいから、お祝いしてるんだ。

生まれ出て、生きていること自体が喜ばしいから、おめでとうなんだ。

 

あなたを大切だと思っているから、生まれた記念日には、おめでとうって言いたいんだ。

 

「お誕生日おめでとう」は、今日があなたの生まれた日だね、生まれてきてよかったね、生まれてきてくれてありがとう、そんな気持ちの言葉だったんだ。

 

どっひゃぁ〜〜

こりゃびっくりだ。

 

そんな深い、ふか〜い意味が込められていたなんて。

 

いやまあ、子供を持って育てている(育てたことがある)人にとっては、わりと当たり前の感覚なのかもしれないけどさ。

 

僕は子供、いないからね

 

親から「おめでとう」って言われたことはあっても、親として子に向かって「おめでとう」と言ったことはない。

 

で、、それ以外の関係、たとえば夫婦とか恋人とか友達とかの間柄で「おめでとう」って交わす時も、、

 

そんなこと、考えたこともなかった。

 

でも、きっと自分に向かって「おめでとう」って言ってくれる人たちの中には、、

 

そんなふうに感じながら、言葉を発してくれてる人もいるんだよね、きっと。

 

少なくとも親は、たぶん、そうだろう、きっとそうに違いない。いや、そりゃあそうだろうよ。

 

、、、正直に言うけど、これは、感謝とか、感動とか、そういう美しい感じの心理というよりも、、、

 

心の中に広がる、あまりに当たり前のありふれた心理領域のことを、自分がこれまでの人生ですっぽりと完全に見落としていた、そのことに対するショックというか、驚きというか、なんでいままでこれが見えてなかったのさ、あんたってばほんとにおまぬけさんだね、あーあ(笑)、みたいな気分なのである。

 

あーあ、気がついてよかった(笑)