【ももクロ考その15】有安杏果 武道館ソロコンサート サイリウム問題から考えるソロシンガー杏果の未来
先週の金曜は、武道館に行ってきた。
ももいろクローバーZの緑担当、有安杏果のソロコンサートだ。
、、、と、ここは記事の冒頭なので一応そういうふうに紹介をしておくけど、今回のステージを見て、もう彼女のライブを紹介するのに「ももクロの緑の子」という形容は必要ないな、と、そんなふうに思った。
完全に、ひとりのシンガーソングライターとして、確立された世界を持っている。
本当に、魅力的なシンガーになってきたと思う。
まだまだ成長途上。だからこそ、この先が本当に楽しみだ。
彼女のソロの世界は、ももクロとは、全く別のものだ。
そんなことを象徴するようなひとつの出来事が、今回、見られた。
サイリウム問題である。
ももクロのライブでは定番化している、カラーに光る携帯スティック。
ももクロのファンは、自分の推しメンバーの色のサイリウムを振って、応援をする。
杏果の初めてのソロコンは、2016年7月の横浜アリーナ。
あのときは、会場が緑のサイリウムで埋め尽くされ、歌う曲の何割かは、まだももクロナンバーだった。
今年の夏のソロコン@東京フォーラムでは、もうももクロの曲はなかった(「ありがとうのプレゼント」はちょっと微妙だけどね。。その話はまた後で)。
でも、会場は緑一色だった。
そして今回の武道館。
杏果は「演出上の配慮」という理由で、客席でサイリウムなどをなるべく点灯しないよう、事前にブログで呼びかけていたという。
実は、僕はこのアナウンスのこと、知らなかったのだけど、、まあでも僕自身、杏果のライブはサイリウムを使う性格のものではないと感じていたので、武道館には持っていってなかった。
というわけで、、今回の会場ではほとんどサイリウムなし。
いや最初のうちは、点けている人が少しだけいた。
けれどそこで、杏果本人が呼びかけて、最終的には、暗転時には完全に暗くなる空間が出来上がった。
「演出上の配慮」という説明は、もちろんその通りなのだろう。
でも、たぶん、それだけではないだろうな。そんな気がする。
僕がサイリウムを持っていくようなライブに参加したのは、去年の桃神祭が初めてだった。
それ以降、今年の「夏のバカ騒ぎ」や「ももいろフォーク村ちょいデラックス」にも、サイリウム持参で出かけた。
このスタイルならではの面白さがあるのは、経験してみてよくわかった。
コールや振りつけを通じて、ステージと客席がひとつにつながる感じがある。
スタジアムのような大きな会場だと、メンバーがそばに来たときに、そのエリアがその色を点灯することで、ある種のコミュニケーションが成立する。
モノクロデッサンのような曲では、曲に合わせてみんな次々に色を変えていくこともできる。
そして、日が落ちた後のあの客席の色とりどりの景色といったら、それはもう、本当に綺麗だ。。などなど。
だけどね、、あの小道具を手に持っていると、手拍子や拍手はてきめんにやりにくいんだよね。
ライブの醍醐味は、ステージと客席がつながって、一緒に盛り上がっていくところにある。
もちろん、サイリウムを使ったつながり方もある。
でも、拍手や手拍子でつながるやり方もある。こっちに関しては、サイリウムはむしろ邪魔になる。
杏果は、この後者の方のやりとりが成立するようなライブステージをやりたいんじゃないかな。
前回の東京フォーラムのライブ、最後は劇的なダブルアンコールだった。
例の逆順アンコールが終わって、杏果が引っ込んで、、、でも、会場の拍手と手拍子は鳴り止まない。さらに加速して、盛り上がっていく感じ。
それに押されて、居ても立っても居られないって感じで、杏果がもう一度、飛び出してきた、あの瞬間の爆発的な高揚感。
あんな感じで繋がっている感じのステージを、彼女はやりたいんじゃないか。
であれば、その手段は、自然発生的な拍手や手拍子。
だから、サイリウムは使わない。使いたくない。
それはおそらく、ももクロでは、できないことなのだろう。
今回は、フルアルバム「ココロノオト」を引っさげてのコンサート。
その収録順をほぼなぞるような形で、ライブは進んだ。
01. 小さな勇気
02. 心の旋律
03. Catch up
04. ハムスター
05. feel a heartbeat(エレギ演奏)
06. ありがとうのプレゼント(ピアノ弾き語り)
07. First Love(アコギ弾き語り)
08. ペダル(アコギ弾き語り)
09. Choo Choo TRAIN(ダンス)
10. Drive Drive
11. 裸
12. 愛されたくて
13. 遠吠え
14. TRAVEL FANTASISTA
15. 色えんぴつ
16. ヒカリの声
<アンコール>
17. 教育(ドラム叩き語り)
18. 逆順メドレー
19. Another story
<ダブルアンコール>
20. feel a heartbeat(アコギ弾き語り、全員で合唱)
ほぼアルバム曲順、ではあるが、Another storyはアンコール用に温存。
これは大正解だったと思う。
First Loveとペダルはアコギで弾き語り。
あの、「すごく高くて驚いた」というTaylorのギター(9シリーズ)だ。
ものすごく、上手くなっていた。正直、驚いた。
「いいギターは弾き手を育てる」原理は、ここでも健在のようだ。
これまで僕が見た過去2回のライブは、どちらも素晴らしいものだった。
でもって、、今回はさらにいいもの見せてもらった。
横浜アリーナで感じたのは「新鮮な喜び」。初のソロコンがとにかく嬉しくて、楽しくて、そのエネルギーと高揚感で、全力で走りきった、そんな印象だった。
東京フォーラムでは「決意」を感じた。セットリストからももクロナンバーを取り払い、作り始めたばかりの自作曲で勝負する、と心を決めた、そんな強い思いや緊張感が感じられた。
今回は、、「表現者としての対話の意欲」みたいなものが伝わってきたように思う。
これ、ちょっとわかりにくい表現かもしれないけど、、、説明してみるね。
今年の夏の東名阪ツアーから仙台を通じて、杏果はこのセットリストの曲を、お客さんの前でかなり歌いこんできたわけだ。
そこでいろんな反応を感じ、それを踏まえて、アレンジや歌唱法、曲順などを試行錯誤してきたはずだ。
そういうプロセスを経て、いまの杏果はたぶん、パフォーマンス中のお客さんとの対話のつけ方のバリエーションをいろいろ持ちながら、歌ってるんだと思う。
「ここは押すとこ」「ここは引くとこ」みたいなバリエーションね。
で、、その日の会場の空気や、お客さんの反応をみながら、「今日はどんなふうに行こうか」って、そんな感触を持ちながら、やってるんじゃないかな。
ただ一生懸命歌うだけじゃなくて、お客さんの顔を見て、会場の空気を感じながら、伝わるように、繋がるようにパフォーマンスをしてる、そんな印象。
いい意味で、余裕が出てきた、とも思える。
で、、、こんなふうに考えれば、「サイリウムなし」っていう状況を彼女が望むのも、納得がいく。
サイリウムを手にしたお客さんは、どうしても、決めポーズ(振り)で動きたくなる。
決まったパターンの動きばかりに埋没してしまうのだ。
で、、そうすると、ときには、時には、歌なんか聞いてる場合じゃないって感じになることもある。
ステージ上の杏果と繋がる道が、かえって閉ざされかねない。
聴き手にも、つながる姿勢でいてほしい。
一緒に、つながる場を作っていきたい。
杏果は、そういうところを見ながら(感じながら)パフォーマンスをしているんじゃないかな。
更にいうなら・・・
たとえばポール・マッカートニーぐらいのアーテイストになると、東京ドームぐらいのサイズの会場でギター1本で弾き語りをして、聞いている5万人ぐらいの人を、瞬時に、同時に、「ああ、ポールは私(だけ)のために歌ってくれてるんだ」っていう気持ちにさせることができる。
そんな境地への第一歩。。ってことなのだろう。
まあ、これは、遠い道ではあろうけれど。
でも、そっちへ進み始めたという印象を感じたのは、確かである。
ちなみに、、、前回の東京フォーラムのライブでは、僕は音響面に不満を感じて、そのことをブログに書いた。
それを関係者どなたかが目にしたかどうかは定かではないし、前回と比べて音響の何かを変えたのかもわからないが、少なくとも今回の僕の席の音響環境は、前回よりずっと良かった(今回はなんと、アリーナのかなり前のほうの席だった!)。
なので自分の理解としては、「この点は改善された」としておくことにします。
さて、、
そんな素敵なライブだったのではあるが、いくつか気になったこともある。
今回も、もしかしたら関係者(あるいはエゴサ好きな杏果本人かも?)がこの記事を目にするかもしれないので、この先なにかの助けになるかも、という思いから、書き留めておくことにしたい。
まず1点目。これは実は東京フォーラムでも気になったんだけど、、
MCの中で、「私にはキャッチーで売れる曲は書けないけれど・・・」などという言い方は、しないほうがいいと思うな。
まあ、正直な心境なのだろう、とは思うが。
そしてそんな正直さがそのまま言葉になってしまうのは、杏果の魅力ではある。
だけど、、少なくともシンガー&ソングライターとして活動する以上、自分の作品の価値を下げるような言葉を、お客さんの前で発するのは、やらないほうがいいと僕は思う。
売れることを目指して作品作りをしているわけではなく、別の気持ち(聞いている人の心を勇気付けたい、とか)を込めている、という、そういう心境は理解できる。
でも、そういう曲が何かの拍子に売れる可能性は、決してゼロではないはず。
だけど、もし「私には売れる曲は書けない」って言い続けていたら、、、そりゃあ、売れるものも売れないに違いない。
わざわざ売れないことを確定付ける道を選んでどうする、って話だ。
・・・ていうか、杏果はすでに武道館ソロライブを成功させた立派なシンガーである。
「売れない」という状況とは、客観的に見て、すでに違う。
心の中で「あの人みたいな曲は書けないなぁ・・・」って思うのは、まあ、仕方ないとして。
でも、MCで口にするのは、やめたほうがいいと思うな。
(あの子にはかなわなくても、自分は変えられる、って、そういうことだと思う)
2点目。歌詞をスクリーンに表示するのは、とてもいいやり方だと思う。
ぜひ、多くの曲で実現してほしい。
まあ、「べき論」でいえば、歌詞を見なくても、初めて曲を聴いた人にも、言葉が伝わるように演奏するのが理想の姿だろう、とは思う。
でも、曲調によっては(特にロック系の曲では)、そうは言ってもなかなか難しい面もあるだろう。
そういう曲ではとくに、歌詞の表示をどんどん活用したらいいと思う。
テレビで字幕を表示するのは、もともとは聴覚障害者や、耳の機能が落ちた高齢者に対する配慮として始まった。
でも、そこに表現としての幅広い活用法があることがわかってきて、今や実にさまざまな使い方がされている。
障害者のために役立つものは大抵、健常者にとってもけっこう使いやすかったり、あるとありがたいものだったりする。
そう考えると、音楽ライブでも、字幕テロップ的な表現をむしろ積極的に使うことで、いろんなメッセージが伝わりやすくなるはずだろう。
3点目。これはたぶん余計なお世話に聞こえると思うけど、ずっと気になっていることなので、思い切って書いておく。
杏果は、自分のソロ曲を、ソロコンでだけ歌うことにしていると、どこかの記事で読んだ。
ソロの歌は、ソロコンの場で育てていきたいと考えてのことだ、という。
つまりは、ももクロのライブでは、ソロの歌は歌わない、ということだ。
実際、彼女のソロコンの空気感は、ももクロのライブとは全く別物だし。
ももクロのライブでいきなり「色えんぴつ」とか歌ったら、、そりゃあ違和感あるよね。
ももクロとは別の、ソロの世界を、じっくりと育てていきたい。
そう考えるのは筋が通っているし、ひとつの立派な考えだと思う。
ただ、、人間の気持ちの中には、筋や理屈だけではおさまらない気持ちが湧くことがある。
僕が気になっているのは、例えば他の4人のメンバーの気持ちだ。
あるいは、ももクロのライブやイベント、活動などに関わっている、スタッフや関係者の人たちの気持ちだ。
そしてもちろん、ももクロを応援しているファンの気持ちだ。
そういう人たちはもちろんたいていみんな、杏果が自分のソロ曲をソロコンでだけ歌うことにした、という決意を、理解してくれているにちがいない。
だけど、、、頭では理解していても、内心かすかに、もしかしたら本人も自覚できないほどかすかに、ちょっと寂しいなぁっと感じている人も、けっこういるんじゃないかと思うのだ。
そういった、自覚できないほどのほのかな寂しさって、気づかないままに放置しておくと、いつの間にかけっこう大きな不快感や嫌悪感、怒りなどを募らせる火種になったりすることがある。
僕は、そうはなってほしくない、と思っているわけだ。
余計なお世話だろう。はい、もちろん余計なお世話ですとも。
でも、そういうことって意外と多いのだ。
もともとは好きだった人間関係の中で、気を遣ったり、ちょっとした遠慮をするうち、自分でも気づかないうちに、かすかな寂しさや疎外感をつのらせてしまい、、
それがいつの間にか積もり積もって、人間関係を難しくしたり、心の安定を失わせたりする。
おそらく世の中のココロの問題の大半は、こんな流れから生じている、といってもいい。
実際、ちょっとだけ想像力を行使してみれば、そこに寂しさがあるかどうかはある程度、判別できる。
杏果が、ももクロのイベントなどで、ソロ曲を歌っている姿(Feel a Heartbeatの弾き語り、とか)を空想してみればいい。
もしそんなシーンを思い浮かべたときに、「嬉しい」って感じる気持ちが湧いてくるようなら、、、逆に、それが起きていないことを寂しいと感じる気持ちが、心のどこかにきっと、うっすらとある。
それで、、たぶん、そう感じる人がいるんじゃないか、ということをふまえて、、、
僕が勝手に思い描いているのは、こんな提案だ。
現状、ももクロの活動と杏果のソロライブは、きっぱりと区別されている。
だけど実際は、その両方にまたがる存在がある。
そう、「ありがとうのプレゼント」と「教育」だ。
この2曲は、「ももクロの杏果のソロ曲」という“中間的”な位置づけの曲で、過去にももクロのCDに収録され、ももクロのライブなどでも歌われている。
そういう曲が、、ソロアルバムにこそ収録されていないが、杏果のソロコンでは定番になっている。
「ありプレ」はピアノソロ、「教育」はドラム叩き語りといった具合に、むしろソロライブの中で、なくてはならない曲だ。
でも、さ、、もし「ももクロとソロは別物」というロジックを厳密に採用するなら、この2曲をソロコンで歌うのだってどうよ?って理屈にもなりかねないはずだ。
逆に言うなら、、、この中間的な位置づけの2曲をソロコンで歌うのがアリだというなら、、、
ソロシンガー杏果が、ももクロとソロの“中間的なライブ”の場で歌ってもいいんじゃないかなって、僕はそんなことを思っているのだ。
“中間的なライブ”の場とは、たとえば、ももいろフォーク村のことだ。
あれは、ももクロが坂崎さんとともにホスト役を務める番組である。
でも、自分たちの歌を歌う場ではない(歌うこともあるが、それはむしろ例外)。
ゲストとのコラボなどを含めて、さまざまな歌を歌う。
つまり、「ももクロが仕切るライブっぽい場」ではあるけど、ももクロのライブそのものではない。中間的な場だと言っていいだろう。
そこに、ソロシンガー有安杏果がゲストで来ればいいのだ。
まあ、宗像フェスにもソロで出たんだから。発想はそれと一緒。
きくちPさんはウエルカムでしょう、もちろん。
たぶんリクエストもいっぱい来てると思うな。
もしそうなったら嬉しい? って、誰か、ほかの4人に聞いてみてほしいな。
そしてもし、嬉しいって答えるメンバーがいるなら、これはぜひ実現してほしい。。。というか、実現しといたほうがいいと思う。
※ここからは、一晩明けた24日の追記です。
まあ、この件の一番のポイントは、、
「寂しい」というかすかな思いが、顧みられずに放置されていると、そんな気持ちがぐんぐん膨らんで、人間関係に問題を起こしかねない、という部分である。
だから、そこに寂しさがあるということが、「表沙汰になって」いるなら、問題は深刻化しにくい、ということになる。
むしろそっちのほうが、健全な関係のあり方といえるだろう。
その辺は、たとえば5人のメンバーの間で(あるいはスタッフとの間で)、どんなふうに扱われているのだろうね?
あの5人は、見るからに隠し立てなくなんでも好きに突っ込みあい、言い合ってるような雰囲気がある。そこは安心ポイントである。
1、2年前の夏のGirls Factoryで、しおりんがMCを担当した日があった。
その日、ももクロは出ないけど、天かすトリオが登場した。
で、、しおりんが天かすトリオのももかにインタビューしたわけ。
「ももかは、ももクロよりこっちの方がずっといきいきしてるよね〜笑」
「そんなことないよ、何言ってんのよ〜笑」
みたいなツッコミ合いがあって、とてもいい感じだった。
あんなふうに言い合える空気なら、たぶんなんの問題もない。
ただ、、最近はとみにみんな大人っぽくなってきているので、、、
ソロ活動っていう少し微妙なテーマに関して、もしかして大人びた遠慮っぽい空気が出てきてるんじゃないか、そこに互いにアンタッチャブルな部分ができかねないのでは、と、そんなことを僕はちょっと心配しているわけだ。
だから例えば、れにちゃんあたりが杏果に向かって、、
「ね〜ありちゃんのソロの歌は、ももクロのライブでは歌わないの〜?」
「歌わないよ、ソロコンだけで歌うって決めたの」
「じゃあさ、フォーク村だったらいいじゃん、あそこで歌ってよ〜」
「えー、なんかそういうのって、違うと思うんだ」
「いいじゃん、歌ってよ〜、聞きたいよ〜、なんかさぁ、水臭いじゃん」
「えーーだってぇ、、」
「じゃあさ、いつか歌ってよ、ねーねー」
みたいな感じで遠慮なく口に出すような雰囲気があるなら、僕の心配はまったくの杞憂なのである。
ただまあ、、、それはそれとして、もしそうであっても、いずれかのタイミングでフォーク村あたりにソロシンガー有安杏果が登場するのは、僕はアリだと思うんだけど、、、どうでしょうね。