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「自己を肯定できない」と悩むなんて変な生き物だよな

 一昨日も書いたとおり、最近、僕の頭にずっと引っかかっているテーマは「自己肯定感」。

 

 で、、、今日は少し「そもそも論」にさかのぼってみたい。

 

 そもそも「自己肯定感」が、なぜ問題になるのか?

 

 自己肯定感は、自分の存在を「価値がある」と感じる感覚のこと。これが低ければ、自分が生きている意義や価値を感じにくい。すると「俺はなんで生きてるんだろう?」などと思い始めることになる。

 

 そんな心理が極度につのれば、、最悪の場合は、自殺するだろう。

 

 そもそも「生存すること」は、生命の本質である。生き物の定義といってもいいほどの性質だ。

 

 

 生物学=生物の体や振る舞いを紐解く学問が明らかにしたところでは、生き物の存在原理は、「生きること」と「繁殖すること」の2点に集約されるという。

 すなわち生命活動とは、個体レベルでは自らの生存、種レベルでは種の保存=繁殖を目指して営まれる現象である(と理解できる)。

 

 この原理は当然、人間という生き物にも貫かれている。たとえば「3大欲求」と呼ばれる本能的な衝動(食欲、睡眠欲、性欲)を見ると、前の二つは個体生存のため、最後の一つは種の存続のために機能する。

 そういう性質を、人体も(人の心も)当然のごとく宿しているわけだ。

 

 そりゃあ、生き物なんだからそうなっているのが当然なのだ。

 

 そう考えると、、、、「なんで生きているんだろうと悩む」という現象そのものが、生き物としては、かなり変。

 

 なんと妙な生き物なのだろう、人間は。

 

 3大欲求のような衝動を発するのであれば、自分の生存を肯定的に捉える感覚も発してくれてもいいのに。

 

 いや、よく考えてみれば、そういうのもある。「生存本能」という言葉に照らして人間の心の中を探していけば、危機的な局面でなんとか生きようとする衝動は、おそらく誰の心の中にも見つかるはずだ。

 現代の日本のような治安の良い社会にいると直面する機会が少ないから見えにくいだけで、実際に生存が脅かされかねない(と予感させるような)状況においては、自らの存在を守ろうとする強烈な衝動が湧き上がるはずだ。

 

 この衝動が発せられる根底には、当然ながら、「生きることに意味がある」という前提があるだろう。だから、なんとか生きようとするわけだ。

 

 ということは、、、この種の衝動(生存本能)と、自己肯定感は、心理を成り立たせるベースが異なると考えられる。

 

 個体の生存を成り立たせようとするのが、生存本能。では、自己肯定感はどこから生じるのか?

 

 こちらは、「肯定する」という言葉が暗に示すように、他者との関係の中から生じる心理と考えられる。人が「君には存在する価値がある」と認めてくれるであろうという信頼が、自己を肯定する感覚を成り立たせている。

 

 つまり、社会的な存在としての自分の存在価値を認めるのが、自己肯定感といえるだろう。

 

 人間は社会的な生き物である。個体レベルで生存する「自己」の上に、重層的に、社会的存在としての「自己」意識が重なっている。

 

 個体としては、食べ物や水があって外敵を避けられれば、生存できる。だが、それだけでは「生きているという充足感」を満たすのに足りない。なんらかの所属集団の中で自分のポジションを確保して、なんらかの貢献をし、信頼や感謝をされる、そんな状況においてやっと、「ああ生きててよかった」と感じる、そんな生き物なのだ。

 

 で、、、この構造の中に、落とし穴がある(この辺が、一昨日の話と関連するところ)。

 

 「ポジションを確保して」「貢献する」という部分がしばしば、「○○ができる」という実務遂行能力や実績と同一視されてしまうわけだ。

 

 もちろん、そういう側面はある。なんらかの仕事がうまくこなせるとか、力を持っているといった部分が組織や集団の中で評価されれば、それを嬉しく感じてやりがいを得るのは、ごく自然なことだ。

 

 ただ、、その延長で「「○○ができる」がなければ存在している価値がない」という思考にはまってしまうと、なんらかの理由で○○がゆらいだ時に(あるいはそもそも○○が見つからないときに)、自己の存在を肯定できなくなる。

 すると、「どうして生きてるんだろう・・・」に陥ってしまう。

 

 これが、「自己肯定感が低い」状態。

 

 最も強い自己肯定感は、「○○ができる」といった能力面ではなく、存在そのものに価値を認める形で発揮される。

 

 「私は、ここにいるだけで価値がある」と確信しているのが、自己肯定感が最も強い状態だ。

 

 その意味で最強といえるのは、赤ちゃんだろう。

 

 人間は、他の動物と比べると、非常に未熟な状態で生まれる。ヒトの赤ちゃんは、立つことはおろか、生まれて最初の数か月間は自力で寝返りをうつことさえ、できない。

 そんな未熟で何の役にも立たない存在は、親(に代表される保護者)から与えられる、無条件で一方的な加護があるから、命をつなぐことができる。

 

 もしそこで遠慮したら、赤ちゃんは生きていけない。

 

 謙虚であることは、赤ちゃんにとって美徳でもなんでもない。死への道だ。

 

 だから赤ちゃんは、最強の自己肯定感を持っている(と想像できる)。

 

 まあ、成長した大人の意識とはずいぶん違う精神状態だろうけれど(昔のことなのでもう覚えていませんが・・・笑)、おっぱいからしもの世話まで全部人にやらせるのを平然と受け入れるのは事実だ。

 

 誰でも、生まれた直後は赤ちゃんだった。

 だから、誰の心の中にも、そういう部分はあるはずなんだよね。

 自分の存在の価値が、無条件に受け入れられることを、信じる力。

 

 そんなの、どこにあるんだろう? って思うだろうか。

 

 自分の経験から言うと、、、そういう感覚を自分の内側に見つけようとするときは、こんなことをやってみるといいようだ。

 

(1)呼吸に意識を向ける

 

 「生きることは、息すること」っていう言葉がある。自分の呼吸に伴う体の感覚(筋肉や骨格の動き、空気が流れる感覚など)に意識を向けながらゆっくり呼吸をしていると、「ああ、生きている」というなんとも言えない幸せな気分が心のうちに湧きやすい。

 

 考えてみれば、赤ちゃんが自力でやっていることって、呼吸ぐらいでしょう。だから、赤ちゃんにもどった気分で呼吸に没頭するのが一番いいのかもしれない。

 

(2)からだに触れる、撫でる

 

 顔、背中、胸、脇腹、足の裏など、撫でて気持ちいいところならどこでもいいので、撫で回してみる。誰か親しい人に撫でてもらうほうがよりいいのかもしれないけれど、自分で自分を撫でてもかなりいい気持ちになれる。

「からだ」という物理的な存在は、実感として感じてみると、なぜだか肯定的な性格を帯びたものとしてとらえられるようだ。

 

(3)自然の中を散策する

 

 公園や遊歩道、河原など、なるべく自然なものがある場所を散歩する。

 

 これらのことをやったときに立ち上がる気分は、ここまで書いてきた文脈でいうと、社会性に根ざした自己肯定感というよりは、「生存本能」の方に付随する存在肯定感覚のほうに近いかもしれない。でも、この肯定感はたぶん、社会性のほうの自己肯定感とも深い部分で連動している。だからこういう感覚をしっかり味わうと、自己肯定的な気分が高くなる。

 

 最後に、社会性のほうに直接働きかける方法として・・・

 

(4)人に挨拶する

 

 相手はまあ誰でもいいんだけど、手っ取り早いのはコンビニやドトールのレジにいる人とか。そこで例えば、相手が「ありがとうございます」という前に、「ありがとうっ!」などと言ってにっこりしてみると、普段なら機械的なやりとりに終始しがちな空間が、ふわっとあったかくなる。

 ただし相手によってはむしろ迷惑そうな顔をされることもあるので(笑)、その辺はまあ、相手を見ながら臨機応変に。