健康志向は「怖れ」につながる。養生は「畏れ」を養う
二日前に書いた「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の話のキーワードは、「怖れ」だった。
この言葉について書きながら、僕の頭の中では、これと似て非なるもう一つの「おそれ」のことを、なんとなく考えていた。
それは「畏れ」。
どちらも、読みは「おそれ」。たぶん大和言葉の語源は重なるのだろう。
だが今では、かなり違う意味になっている。
歴史的にどこかの時点で、意味の異なる別々の言葉に別れたのだろうね、きっと
「怖れ」は、恐怖を覚えること。「恐れ」もほぼ同じ意味。
自分がなんらかの形で攻撃され、痛い目に合わせられるような可能性を予見し、そんな未来の状況に不安を抱き、おびえ、身を固めて構える、そんな心理を示す言葉だ。
何か強大なものごとにたいして、おびえている様子がうかがえる。
これに対して「畏れ」は、自分より強大な相手に面しているという状況は一緒なのだが、その時に抱く心理は、単純なおびえではない。
そこには尊敬の気持ちや、ある種の親愛の情、さらに我が身の命運をゆだねるような信頼感がある。
まあ、かなり宗教がかった表現といえるだろう。つまり、畏れの対象としてふさわしい言葉を何かあげるとすれば、「神」とか「天」のようなタイプの言葉がいかにもピッタリ収まる。
日本古来の宗教観でいうと、八百万の神々は自然現象、森羅万象の中に宿るもので、その作用は山海の恵みであると同時に、荒ぶる神=災いの源でもあった。
そう考えれば、「怖れ」と「畏れ」が元々は地続きの言葉であったととらえても、不思議ではない。
さて、僕にとってこの「畏れ」という言葉は、ちょっと特別な意味を持っている。
この言葉は、江戸時代の健康書「養生訓」の中に、こんな形で現れているのだ。
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身をたもち生を養うに、一字の至れる要訣あり。是を行えば生命を長くたもちて病なし。おやに孝あり、君に忠あり、家をたもち、身をたもつ、行うとしてよろしからざる事なし。其の一字なんぞや。
「畏(おそれる)」の字是なり。
巻1 総論 上 12
(訳)
身体を保護して養生するために、忘れてはならない肝要な一字がある。これを実践すれば生命を長くたもって病むことはない。親には孝、君には忠、家をたもち身体をたもつ。何を行っても間違いは生じない。ではその一字とは何か。
「畏(おそれる)」ということである。
(講談社学術文庫 養生訓 全現代語訳より 原文一部現代カナに変えました)
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養生訓は、いまから約300年ほど前の江戸中期に書かれた、日本で最初の健康書。ものすごいベストセラーになったと言われている。
著者の貝原益軒は儒学者で、すこし説教くさい感じの言い回しにも見えるが、「養生とは何か」という本質を、わかりやすく端的に表した内容は、現代においても大きな価値があると、僕は思う。
僕は数年前、医療史研究家で養生訓関連の著作もある立川昭二さんにインタビューする機会があり、それをきっかけに自分でも、養生訓の勉強を、細々とではあるが地道に積み重ねている。
健康関連の物書きとしての自分の仕事の中核を担うものが、そこにありそうな気がしているからだ。
その養生訓において、「養生の要訣」とされるのが、「畏れる」。
何を畏れるのか?
自らの身体、そして命そのものを畏れ、大切にするのである。
養生訓って、知名度の割に、実際に読んだ人はほとんどいないと思うけど、その冒頭はこんなふうにはじまっている。
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人の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生まれ、又養われたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養いて、そこないやぶらず、天年を長く保つべし。
巻1 総論 上 1
(原文一部現代カナに変えました)
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自分の身体や命は、父母や天からの授かりものであって自分のものではない、だから「私物扱いするな」と、そういう意味だ。
単に「自分を大切にしよう」だけではまだ足りない。「天の物として、畏れなさい」と。
本の冒頭がこんなフレーズで始まるのだから、養生において「畏れ」は間違いなく本質であり、核心なのである。
さて、これを「健康」という言葉と対比してみると、ちょっと面白いことが見えてくる。
現代では、養生という言葉はあまり耳にしない。代わりに「健康」という用語が広く使われるのは、みなさんご存知の通り。
で、「健康」という考え方においては、、、「自分の命は授かりものであるから云々」のような、時代がかった前振りが語られることは、あまりない。
そんなことよりも、現代において重視されるのは、「医学的エビデンス」。
つまり、医学の目で見てきちんとした根拠がある情報を駆使して、健康づくりをすることが大事である、と、そういうことになっている。
具体的に言えば、、例えば「血圧」。
現在、医学的には140/90mmHgを切るのが正常域とされている。それを超えると「高血圧症」という病名がつくわけだ。
そして、薬を使うにせよ、減塩や有酸素運動に取り組むにせよ、目標は140/90mmHgを切ること。そこまで行けば、脳卒中や心疾患のリスクが低くなるから、とにかくそこを目指しましょう、ということになる。
つまり、その領域に入ることが、「健康」の条件というわけだ。
ここには、「畏れ」という感覚はほとんどない。
条件にかなえば健康であり、そうでなければ病気という、単純明快な二元論だ。
で、、興味深いことに、ここでむしろ、もうひとつのおそれ=「怖れ」の方が浮上してくる。
「医学的にはこれが正解」という基準が、絶対的な判断指針として、自分を裁きにやってくる。
その前で、まるで責められているかのような気分になり、心身が萎縮し、不安になる。
医学や医療、健康という文脈の遡上に載せられたとき、そんな気分になったことはないだろうか?
理屈で言えば、おかしなことだ。
「医学的な正解」は、私をいじめに来るわけではない。本来は、私が健康になる助けとして情報提供されたはずだ。
にもかかわらず、気分的には何か強大な、抗いえないものから責められているような、そんな気持ちに陥ってしまうことがある。
なぜだろう?
それはおそらく、健康(および、その根底にある医学)における基本的なものの考え方が、「完全主義的」であり、減点法的であり、「理想以外は不合格」という裁きの構造を取っているからだろう。
これは、うんと遡ればプラトンのイデアあたりを源流とする、西洋的な世界観の基本構造だと思われる。
日本古来の神は、荒ぶることはあっても、裁くことはしない。
でも、西洋の神は、裁く。
「理想」という剣を使って、良きものと悪しきものを、バッサリと切り分ける。
そんな裁きの座に置かれるとき、人は「畏れ」より「怖れ」を感じるのではないか。
・・・これだけではあまりにものの言い方が乱暴で短絡的なので、キリスト教の名誉のためにちょっとだけ補足しておくと、西洋の宗教的世界観において、旧約聖書では「裁き」が前面に出ているが、新約聖書においては「赦し」というものが出てきて、それで人は救われる、と、そういう構造になっているようだ。
赦しのために、イエス・キリスト様が十字架にかかってくださった、と、そこが、信仰の拠り所。キリスト教徒の方々は、裁きへの怖れだけで信仰しているわけではなく、赦しにたいする感謝や喜びが、支えになっている。
・・・と、まあ、信仰のお話はそういうことだとして。
でも、医学や科学の中には、「赦し」を認めにくいだろうからね。
そこへいくと、「養生」では、初めから全てを受け入れているのである。
それが「畏れる」という感覚の、懐の深さ。
正解かどうかを問うよりも、まず、命は天に属するものだから尊いのだ、と、それが大前提としてある。
そして、命の力を信頼し、ゆだねる。
医学をベースとする医療技術は、急場の救命や症状の緩和においては、ものすごく強力なパワーを発揮する。
それは、うまく使いこなせば、人の人生を幸せにしうるものだろう。
ただ、それでは、医学や科学という枠組みの中をどんなに探しても、「人間の命は尊いものである」という価値の拠り所は、出てこない。
「どうすれば死亡率を下げられるか」には答えてくれるが、「なぜ命は大切なのか」には、答えてくれないのだ。
むしろ下手をすると、裁き的な評価を通じて、「怖れ」を募らせてしまう作用の方が目立つことさえある。
このあたりについて、「養生」に学ぶべきことが多いのではないかと思うのである。