だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

将棋とチェスの違いから、生命観の東西比較について考える

将棋のNHK杯テレビ中継を見たあと。

 

ふと思いついて、チェスに「感想戦」があるのか、調べてみた。

 

答えは、一応「ある」。

 

まあ、感想戦という名前は本来、将棋で使うもので、囲碁では「局後の検討」、チェスでは「post mortem」というようだけど、趣旨は一緒。

 

wikipediaより引用_________

 

感想戦(かんそうせん)とは、囲碁、将棋、チェス、麻雀などのゲームにおいて、対局後に開始から終局まで、またはその一部を再現し、対局中の着手の善悪や、その局面における最善手などを検討することである。

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ただし、ネット情報をいくつか見た印象では、将棋ほどには必須とされていないみたいだ。

やった方がためになるので推奨されているけど、プロの大会でも、やるときもあれば、やらないこともある、ということのようで。

 

将棋の場合、プロ、アマ問わず、公式な対局では必須。

まあ普通の人の趣味対局はともかくとしても、街の将棋道場などでも感想戦をやるよう指導してるって聞いたことがある。

基本的に、「感想戦まで含めて1局」という考え方があるのだろう。

 

なぜこんなことを思いついたかというと、、、

 

 

僕はチェスのことはほとんど何も知らないけれど、ルール上、将棋と一つ大きな違いがあることぐらいは知ってる。

 

将棋は、ゲーム中にとった相手の駒を自分のものとして使うことができるのに対して、チェスでは、とった駒はそこでもう終わり。再び使うことができない。

 

で、、そこからの連想で、もしかしたら感想戦の扱いも違うんじゃないか(あるいはそもそもチェスには感想戦がないのでは?)、と、ふと思ったわけ。

 

結果は、なくはないけれど、将棋ほど重きを置いてないらしい、、ということで、まああてずっぽの想像としてはあたらずも遠からず、といったところか。

 

取った駒の扱いと、感想戦
何の関係が?と思うでしょうか。

子どものころだ、将棋とチェスでは取った駒の扱いが違うという話を聞いたとき、こんなふうに説明された記憶がある。

「ヨーロッパの戦争は、言葉、宗教などが違う異民族間の戦いだから、敵はどこまでも敵(異質な相手)。チェスはその発想のゲームなので、相手を次々に殺していく」

「(戦国時代などの)日本の戦(いくさ)は、隣国といっても峠一つ超えた隣の集落みたいなもの。将棋はその発想のゲームなので、さっきまであっちで働いていた兵がこっちで働くようになっても違和感がない」

まあ、乱暴な説明だけど、そんなものかな、という気もする。

何しろヨーロッパの戦争といえば、十字軍とかのスケールまでいくわけだからね。
関ヶ原の戦いがいくら「天下分け目の・・・」とがんばっても、規模が違いすぎるでしょう。

敵と味方をきっちり隔てて混ざらないようにする発想は、かの地の城郭都市の姿にも見て取れるそうだ。

ヨーロッパの古い都市はたいてい、周りを城壁できっちり囲んでいるという。
その内側が、味方=自分たちと同質なものが住む都会エリア。
その外は、バーバリアンがすむエリア。
はっきりとした境界線があって、混じり合うことをよしとしない、そういう思想が街の形になっている。

敵と味方。善と悪。きっぱりと2つに分ける二元論。

日本の街はもっと境目がなだらか。
里山ともなれば、獣がすむ領域ともゆるやかに地続きになっている。
そして輪廻天性の思想でいえば、命までも、人間とほかの生き物の間を行き来することになる。

そりゃあ、将棋の駒ぐらい、簡単に行き来するよね。

で、、、感想戦は、さっきまで“敵”だった対戦相手が、終局と同時に研究仲間に早変わりするわけだ。

羽生さんも、よくそんな趣旨のコメントをしている。

棋士はお互いにライバルであると同時に、将棋という世界を極めるための同士でもある」と。
二元論的な単純な敵対関係ではないわけだ。

だったら、駒があっちとこっちを行き来するゲームの方が、親和性が高いんじゃないかな。。。と思ったわけ。

まあ、、感想戦についてこういう意味付けが成り立つかどうかは、実際の所よくわかりません。
何しろチェスのゲームを見たこともないので(笑)

でも、チェスと将棋というある意味よく似たゲームの背後に、実は大きな世界観の違いがあるのは間違いないでしょう。

さて、、、ここまでの話は、実は本題の布石(笑)

本題はやはり、体のお話です。

以前、このブログで、免疫の働きをどう解釈するかについて書いたことがある。このエントリー

簡単にまとめると、、、

・免疫という体の働きは一般に「ウイルスやがん細胞など、体の“敵”をやっつける機能」と考えられている。

・だが、やっつけた相手の残骸は最終的に自分の体の成分として活用されることや、そもそも体を構成する素材の成分は新陳代謝のサイクルを通してつねに入れ替わっていることなどを考えると、免疫の機能は、「ウイルスやがん細胞などを、自分の体の生命活動(新陳代謝サイクル)の中へ取り込む作用」と理解できるのではないか。

・特にがん細胞は、もともと自分の生命活動サイクルの一部だった存在。それががん化によってサイクルから外れ、生命活動を脅かすようになってしまった。免疫の働きは、これを今一度、生命サイクルの中へ連れ戻す営みととらえることができる。

というような内容。

生命活動は、福岡伸一さん流にいえば「動的平衡」。つまり、構造(形や機能)はほぼ一定に保たれていても、中身はどんどん入れ替わっていく。
万物流転、諸行無常
免疫活動も、そんな命の営みの一部だ。

これはチェスより、将棋に近いと思うんだな。
昨日の敵は今日の同士。駒があっちに行ったりこっちに行ったりしながら、将棋という一つの小世界を形成する。

だとすれば、免疫の全体像を理解する上でも、チェス的(西欧的)な二元対立構造で「身体 vs 外敵」と見るだけでは、ちょっと足りないんじゃないかな。。。

・・てなことを、つらつらと考えてた日曜の午後でした。