だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

年の初めにカレンダーについて考えた(雑感です)

8日にもなって今更おめでとうもないですが・・・

今年最初の更新ですので、まずは、今年もよろしくお願いします。

 

更新頻度が低迷したままの当ブログですが、私自身は至って元気です(笑)

 

今回の年末年始は、あまり節目感を感じないうちに、スーッと過ぎていきました。

 

年末年始らしいことがなかったわけじゃないのですよ。

年賀状を多少は送ったし、紅白歌合戦も横目で眺めてたし、年始の親類の集まりでは甥っ子姪っ子にお年玉をあげたし。

おもちやお雑煮もいただきました。

今年は品川界隈に引っ越して最初の正月だったので、箱根駅伝のランナーが走るのを生で見てきたりもした。

 

仕事の面では、今回は年をまたぐ大仕事がなかったので、久々にゆったりした気分でいられました。

 

だから、、ゆったりと年越しを味わう余裕は、十分にあったはず。

 

だけど、、なーんとなく、節目という感触がないままにするするすると時間が過ぎて、ふと気がついたらもう8日。

 

 

まあ、単にぼんやり惚けてたってことですけど(笑)

 

で、、そろそろいろいろとお仕事も再開し始めたので、「ああそうか、年が変わったんだなぁ」って今更ながらに感じているような状況で。。。

 

なんか、気の抜けた話ですが(笑)

 

そもそも、カレンダーに書かれている節目って、何なのだろうね?

 

・・なんて、どうでもいいことにぼんやりと思考をめぐらせてみたり。

 

いや、でも、考えてみると、今のカレンダーの正月って、すごく人為的な節目だと思うのですよ。

 

自分が、まだ暦というものがなかった時代に生まれたとします。
そこで、月日の移り変わりを、どうやって感知すると思います?

日本のような風土であれば、四季の変化がかなり鮮明なので、季節のリズムはだれもが実感するでしょう。
で、少し研ぎすまされた観察眼と、日を数えて記録する知識(技術)があれば、日の出と日の入りを観測することで、「夏至」「冬至」「春分」「秋分」を見つけるかもしれない。

もうひとつはっきりと目につくであろう指標は月の満ち欠けですけど、こっちの話は今日は割愛するとして。

で、、、例えば節分という節目は、「夏至」「冬至」「春分」「秋分」を頂点として1年を4つの季節に分けたときの、境界点を定めたものです(冬至春分の中間点が立春=春の始まりで、その前日=冬が終わる日に豆まきをする)。
だから、節目としての必然性がわかりやすい。

それに対して、今の暦の正月って、何を根拠に「ここが1年の始まり」って決めたんだ?

・・・と思ってちょっとググってみたら、なにやら複雑な経緯があれこれやと出てきましたが。

まあ、ようするにこれはとても人為的な取り決めだってことですね。

僕がもしゼロから暦を作ったら、たぶん「夏至」「冬至」「春分」「秋分」のどれかをスタート地点にすると思います。
あるいは、節分がスタートでもいいけど。

さらにいうと、、

人間はなぜ暦を必要としたのか? って考えると、これは農耕の始まりと深く関わっているに違いない。
いつ種をまけばいいのかは、現代の農家においても、重要な関心事です。
太陽や月の動きを観測して「今が種まきどきだ」と知らせる技術は、農耕というライフスタイルを成立させる、もっとも重要な要素だったはず。

もちろん狩猟採取生活でも、木の実や果実が実る時期、サケが遡上する時期などを事前に知るのは、有益なことだったでしょう。
でも、狩猟採取の生活は、基本的には自然の恵みを「ありがたや~」といって受け取る姿勢です。
自ら種をまくことで、自然の営みに介入するのとは、基本的な態度がまったくちがう。

狩猟採取生活では、季節のめぐりを受け止める意識はあっても、「ここが一年の始まり」などと節目のくさびを打ち込む感覚は、あまり出てこなかったんじゃないかな? 想像だけど。

暦は、季節とか気象とかいう得体の知れない難物を把握し、制御するための手段です。
少なくとも農耕を始めた人たちは、そう思っていたはず。
そのためにはまず、とらえどことろの乏しい相手にいろいろと目印を付ける必要がある。
だから節目節目に暦上の名前を付け、「ここから春」などと境界線を引いた。

生物学が生き物を分類し、名前を付けるのと一緒です。

まあ、人間という生き物の(大脳の)基本性質なのは間違いない。

養老先生は、現代の都市社会を「脳化社会」と呼んでおります。脳がものごとを把握するワク組みをベースに構築された世の中であり、脳の思考方式を外部化した構造である、と。

それにならっていうと、、、現代の暦は、季節のリズムという自然現象の中に、脳の都合でいろいろな目印を刻んだもの。
そこでは、昼と夜の長さが等しくなる日よりも、歴史上の経緯で定められた基準点の方が重視される。。。

で、さらにさらにいうと、、、最近は、その「脳の都合で刻まれた節目の日々」が、商業的な価値ばかりで取り扱われているように思えるわけです。
「いつ種を蒔くか」の目安がさらに転じて、「何を口実に財布をゆるめさせるか」のネタに終始している。そんな印象が強いです。

それでもお正月は、伝統的な節目の体裁を残しているからまだいいのですよ。
クリスマスは、キリスト教徒にとって重要な日なのはわかるけど、そうではない大半の日本人がなぜ盛り上がるのかは理解し難い。
バレンタインデーも、語源的にはキリスト教に由来するんですよね。チョコと何の関係があるんだ?
そして、近年ではハロウイーンまで日本の暦に載っている。

脳の都合の中でもさらに非常に偏った価値観ベースで、節目や記念日が扱われている感があります。

そういう気配が身の回りに漂ってくるだけでも、気分が悪い。。。

・・・まあ、この話と、今年のお正月の気分の話に何の関係があるのかといわれても、特に関係はなさそうですが(笑)
話の流れでついつい。。。

ちなみに、、、暦に出てくる言葉の中で、僕が子供のころからいちばん好きなのは、「啓蟄」。
虫やらカエルやらが、わらわら、ゾロゾロと穴から出てくるとされる日。

ここを1年の始まりにするのもいいと思うんですけど。いかがでしょう?