だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

「空(くう)」な体に神様が降りてくる

ちょっと遅ればせではありますが・・・

気分はまだギリギリ正月休みのさなかってことで(いや、ウチのカミさんは4日から会社にいきましたし、世の中のかなりの方が既に通常モードを始動させているのだろうと思いますが、フリーランスの私には仕事始めという概念がない・・)

一応、年頭のご挨拶を。

あけましておめでとうございます。

 

で、前回の最後に軽く予告しておいた、「神様が降りてくる体」の話の続き。

今日は一通りの決着を付けるところまで行きたいと考えています。

そこまで行っておかないと、どうも奥歯に何かが引っかかっているような気分で、仕事始めっていう気分にならないので。。。

 

前回、「ああやって、こうなって・・・」と意識的に体を操ろうとする動作では、「神様が降りてくる」的な感覚にならない、と書きました。

で、神様が降りてくるには、意識的ではない動き=とっさの反応とか、“気づいたら体が勝手に動いていた”といった感覚を引き出しやすい状況設定(条件)が必要で、だから「リハーサルをしない」のであろう、と。

 

ただし、リハーサルなしのぶっつけ本番的な場面を設定すれば、誰にでも神様が降りてくるわけではない。

 

むしろ、「本番の舞台」のようなところに置かれてしまうことを想像するだけで、緊張や萎縮が先に立って、体もガチガチに固まって何もできそうにない、神様どころじゃない、と感じる人も多いでしょうね。

個人差こそあれ、だれにもそういう部分はあるでしょう。

そこを克服できる体になるために、能でも相撲でも、長い年月をかけて修行するわけです。

 

では、その修行は、結局のところ何をやっているのでしょうか?というのが本日のお題。

 


今日は、現時点で僕が考えている答えを、先に書いてしまいましょう。

体の中に「空(くう)」を実現しようとしてるんじゃないかな、と思うのです。

ということで、早速お話を始めます。

人間は、たぐいまれな「認知能力」を持った生き物です。
認知っていうのは心理学用語ですが、これは、単に何かものごとが「そこにある」と感知するだけではありません。
感知したうえで、そこに意味や価値を付加し、判断し、解釈する、といったプロセスがくっついて、初めて認知として成立します。

例えばリンゴが目の前にあるとします。見ればリンゴの形や色が目に飛び込んできます。手触りや味も、リンゴの感触をしている。
そういった視覚、触覚、味覚などの刺激を受けて、私たちは「はい、これはリンゴです」と知ることになる。

ただ、ここで「リンゴです」とわかった(認知した)ときに頭の中に去来するのは、そのものをリンゴだとわからしめた生の刺激(外観、色、味、手触りその他)の総和ではありません。
私たちの脳の中には、過去に何百回何千回と、直接・間接さまざまな形で「リンゴ」なるものに接した経験が記憶されています。
それらの経験を取捨、解釈、脚色、統合その他いろいろと処理したうえで、自分の中の「リンゴ」というコンセプト、一種のひな形みたいなものが、頭の中で成立している。で、そこに「リンゴ」という名前がついている。

そのひな形の中には、単純な「リンゴっていえばこんな形」「こんな色」「こんな味」という一般的な情報のみならず、例えば子供のころ風邪をひいて食欲がなかったときに口にしたすり下ろしリンゴの味(および作ってくれたお母さんに対する気持ちや、そんな記憶に由来するじんわり心に響く嬉し懐かしい感じの印象)だとか、リンゴ農園に家族でリンゴ狩りに行ったとき雨が降ってひどく寒かったという苦い思い出(そこに由来する苦々しい印象)といった、さまざまな記憶、イメージ、感情的な質感なども入っている。
そういうものを全部踏まえて何らかの形で統合され、成立している自分なりのリンゴというひな形が呼び起こされて、「はい、これがリンゴです」という判断をしているわけです。

つまり、「はい、これはリンゴです」となったときには、外からの生情報と内部のリンゴのひな形との間でマッチングが成立し、意識の中にひな形が引っ張り出されたことを意味します。
結構めんどうなことをやってるわけですね。

で、、、認知能力がずば抜けて高いという人間の性質は、その裏返しとして、「いま、ここで感知している生の刺激の存在感が相対的に小さい」という性質をも、人間の心の中にもたらしているだろうと、僕は思っています。

いやこれは、自分が猫か何かになってその心のうちを体験してみないと、本当のところはわからないですけど(笑)
でもきっと、そうだと思う。

逆にいうと、人間以外の動物の心の中は、ほとんど「いま、ここ」の刺激だけで成立しているのでしょう。

それがどんな世界なのか想像してみるのは、簡単ではありません。
放っておくと、どんどん認知をするのが、人間の脳の性(さが)ですから。
認知の枠組みを外してものごとを捉えようとしても、なかなか容易ではありません。

でも、「こんな感じなのかなぁ」と想像してみる糸口はあると思うんですね。

例えば、目を閉じて(あるいは目隠しをして)リンゴを食べてみます。
視覚は、人間の感覚(5感)の中心的な存在で、認知機能を引っ張り出すプロセスにおいても中心的な役割を果たしていると思われますので、そこをシャットダウンしてみるわけです。

目を閉じて、ゆっくりとリンゴを口に含んでみる。

すると・・・口の中に広がる味や香り、噛んだときのプシュッと飛び散るしぶきの感覚などが、えっと驚くぐらい鮮烈に感じられます。
日頃何気なく食べているときにはほとんど気がついていない鮮やかな刺激が、飛び込んでくるのです。

こういう感覚は、「いま、ここ」で発生した、生の刺激です。
通常の認知プロセスを外す(弱める)と、こんな生々しい、ビビッドな世界が浮き上がってくるのです。

もちろん普段食べているときも、舌や皮膚の感覚器は、そういう刺激をキャッチしているはずです。
でも、脳がそれを重視しなければ、意識の中でその感覚が浮かび上がることはない。
で、、、たいていの場合脳は、食べ慣れたリンゴから伝わってくる刺激なんぞはほとんど無視して、「はいはい、リンゴね」とひな形を対比させ、「よし、食べました」と納得してそれで事を終わらせるのでしょう。
「いつも食べている普通のリンゴ」(=たいしたものじゃない)っていう評価するのも、認知能力の一部でしょうから。

さて、この認知機能のターゲットになる対象物は、リンゴのような外界のモノだけではありません。
自分の体の中の感覚とか、体の動きに対しても、認知的な作用(感知したうえに意味や価値を付加し、判断し、解釈する作用)が働いています。

その最たるもの、といっていいと思うのが、「自分」という概念。

「自分」は、リンゴのように簡単に見たり、持ち運んだりできません。
直接見えるのは体の限られた範囲。鏡を使えば顔などの前面は見られますが、背中まで見るのはけっこう難しい。
(そもそも動物の中で、鏡に映る自分の姿を「自分」と認識できるのは、知能がそうとう高い種に限られるそうです。チンパンジーは、額につけられたペイントを、鏡を見ながら拭うことができますが、犬や猫では難しいらしい。鳥類もできないはず)

そういう手がかりの乏しい概念を頭の中で成立させるのは、かなり高等なことといっていいでしょう。

でも人間には、それができてしまう。

まあ、すごい能力(脳力)であることは間違いない。

この「自分」という概念の中身をみると、大きく二つの側面があることがわかります。
一つは、胴体に四肢と頭部がくっついたこういう体を持つ存在という、個体としての自分。
もう一つは、家族や友人、職場関係、地域や国といった中に存在する、社会的な自分です。

そしてその双方について、過去の経験や記憶に根ざした、自分なりの自分イメージ、枠組みを持っているわけです。

個人としての自分なら、「手足がある」「目が二つある」といった人間としての一般的なイメージに加えて、「私は走るのが遅い」とか「体が固い」とか、あるいは「理論より感情が立つ」「ものごとの段取りが苦手」「料理は得意だけど掃除は嫌い」などなど、まあ人それぞれにいろいろな“自分観”があるでしょう。
社会的な側面では、「人づきあいが苦手」とか「世話を焼くのは嫌いじゃないけどリーダー役はダメ」とか、まあこれもいろいろ。

こういった頭の中にある自分像、自分という枠組みを踏まえて、私たちは日頃、いろいろな行動をしているわけですね。

で、、、リンゴのところで言った「いま、ここで感知している生の刺激の存在感が相対的に小さい」という人間の特徴は、「自分」という概念においても成立します。
自分という生き物としての実体の存在感より、頭の中にある自分像の方が、たいていの場合、勝っているのですね。

よく「自分らしい生き方」とか、「本当の自分を探す」とかいいますが・・・

ああいうのは、頭の中で作り上げた枠組みベースのストーリー、いわば“物語”の中を生きているお話といえます。

ああ、別にそれがダメだといいたいわけじゃないですよ
それどころか、人間は物語の中でしか生きられない。物語を必要とする生き物なのですから。

ただ、その物語によって人生が豊かになればいいのだけれど、ありもしない不幸を頭で作り上げて背負ってしまうこともある。
このあたりが、人間という生き物の、本当にややこしいところ。

だから、どんな物語を抱えていくかが大事なんですね。

さて、、、最初の方で、「本番の舞台のようなところに置かれてしまうことを想像するだけで、緊張や萎縮が先に立って、体もガチガチに固まる」と書きましたが・・・

こんなことが起きるのも、物語の作用なのは、おわかりいただけると思います。

だって、「想像するだけで緊張」ですからね。実際に立っているわけじゃないのにもう緊張している。
これは、人間にしかないものすごい脳力です。

実際に「本番の舞台」に立ったときの緊張はどうでしょうか?
これも物語ですよね。「失敗したらどうしよう」という物語。まだ失敗していないうちに、失敗のことを思い描いている。

しかも、仮に何かを失敗したからといって、命が失われるわけじゃないでしょう。
多少、誰かに怒られたりするかもしれないけれど、せいぜいその程度。
これが、ライオンから逃げている最中のシマウマなら、失敗が生死に直結しますが、現代の人間社会においてそういう意味での本当に命がかかった「本番」なんて、めったにありません。

さらにいうと、、、頭が作る物語は、体を動かす場合にそのまま「ああやって、こうなって」というシナリオになります。
物語の中で生きるというスタイルが、意識ベースで体を操る姿勢と直結しているのです。

物語のないところで生きている動物は、いま、ここでとっさに動くしかない。

ここでちょっと、この動画を見てください。
youtubeでたまたま見つけた、ゴールセービングをする猫の動画です。



ものすごい反応速度。まったくためらいのないダイナミックな動き。
人間にはとてもまねできないでしょう。
こんな動きを猫ができる理由の一つは、彼らが、物語のない世界で生きているから。そう言っていいと思います。

そういう生き物からは、こんなにすごい、まさに神憑った動きが出てくる。

ということで・・・「神様が降りてくる体」を実現するためには、どうもこの、頭が作る物語なるものが邪魔をしているのですね。

でも、、、人間は物語がないと生きられない生き物なのです。

さて、、、おまたせしました。そこで「空(くう)」です。

「空」って言うのはたぶん元々仏教用語だと思いますが、ここでは宗教的な厳密な意味は置いといて。

ぼくは、これも一つの物語だと思うのです。
「空」という物語。

頭の中に物語がない状態を実現したいのだけれど、人間である以上それは難しい。
であれは、「なにもない」という物語を採用すればいいんじゃないか。と。
それが、「空」。

これ、最初に発明した人は、ほんとに天才だと思う。
数字のゼロの発明もすごいんだろうけれど、こっちもそれに勝るとも劣らないでしょう。

つまり、、、神様を降ろす営みに関わる人たちは、もともと自分の中に根付いていた古い物語を、「空の物語」に書き換えていく修行をしているんじゃないか、と、そんなふうに考えたわけです。

さて問題は、「どうやって?」ということですが・・

王道は瞑想でしょうね。
何もせず、何も考えず、いま、ここにいる自分に意識を集中する。

まあ、瞑想のやり方は世の中にたくさん出回っていますから、ここでは取り上げません(僕もまだまだ修行中なので、何かを語れるレベルじゃない)

あと、相撲の四股や能のすり足のような、インナーマッスル(この場合は大腰筋でしょうね)を動かすトレーニングも、たぶんどこかで「空」とつながっているのだろうと想像します。この辺は、理屈ではよくわからないけど。

ここで僕が特に触れておきたいのは、やっぱり野口体操。

野口体操では、体を「液体的なイメージ」として捉え、動きます。
水袋がたぷたぷと揺れ、振動が伝わる姿をイメージしてください。
ああいうイメージの中で、体を動かす(というか、体が動く)のです。

これは、頭の中にある自分像、自分のボディイメージにたいして、革命的な揺さぶりをかけます。
なにしろ、骨も内臓もたぷたぷしてしまうんですから。
でも、実際「寝にょろ」とか「上体のぶら下げ」のようなポーズの中で体の中から伝わってくる感覚をていねいに味わっていくと、こういう液体的な感覚が伝わってくるのです。
そういう実感が、「骨があって、筋肉があって、、、」という身体観の根底を揺るがすのですね。
「固い」と思っていた体の中身が、イメージの中でゆるゆる、ゆらゆらと揺れ、漂い始める。

そこから、体の中が空っぽになる感覚(イメージ)につながっていきます。

まさに、空。

そういうところから・・・やがて普通の体操やスポーツではあり得ないような人生観の変化が出てくる。
単に体力がつくとか、肩凝りがとれるとか、そういうお話ではないのです。

で、、、野口体操は「効能効果を言わない」ということを一つの特徴として標榜しています。
実際にやれば、いろいろいいこと(実利)もあるんですよ。それこそ、肩凝りなどにはすばらしく効く。

でも、それはいわない。
それを目的にして、それを追いかけると、何か根本的なところがずれる。野口三千三先生はそう考えたのでしょう。

「実利を得るためには、実利を追いかけない」

こういうあり方と、「何もないという物語がある」という「空」の考え方は、どこか通じるものがありますよね。