だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

「神様が降りてくる体」ってどんなもの?(前回の続き)

能と相撲はもともと神事。舞台芸能やスポーツ(勝負)である以前に、その場にいる人たちの内面に、神様が降り立ったという感覚をもたらす作用があるのではないか。そしてそこには、この2つの営みが「筋書きのないドラマ」的であることと関係している、、というお話を前回書きました

 

今日は、「筋書きのないドラマ」という言葉の中身を、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

ここでいう「筋書きがない」とは、リハーサルのような準備をしないという意味でした。

つまり、本番において「こうやったら、ああなって、次はこう」みたいな予定調和的な振る舞いが成り立たないところにポンとおかれて、「さあ、なにかしなさい」っていわれるわけですね。

 

そういう状況で、「神様が降りてくる」って、どういうことなのか?

 

えっと、一応断っておきますが、そんな状況にさえ置かれれば、誰にでも降りてくる、というわけではありません。

能も相撲も、厳しい修行を踏まえて技を磨き、体を作った下地があるからそういうことが起きる。これは大前提です。

 

ただ、そういってしまうと、この「神様が降りてくる」っていうのがどういうことなのか、なかなかわかりにくいわけで・・・

 

そこをなんとか、なるべくわかりやすく、この中身のイメージを考えてみたい。

 


最初は、神様が降りてこない方=「こうやったらああなって・・・」的に動くことの方の中身を考えてみます。こちらの方がわかりやすいと思うので。
これは言い方を変えると、自分の振る舞いを「“意識的”に制御すること」と考えればいいでしょう。

たいていの人は、自分の体を、おおむね自分の意志で動かしていると思っていますね。
例えば「はい、右手を挙げて」といわれて手を挙げるとき。
催眠術にでもかかっていない限り、これは意識的な動作です。
そんなときは、「右手を挙げようという意思がある」→「右手を上げる筋肉に脳が指令を出す」→「右手が挙がる」という筋書きに従ってものごとが進行しています。
これが、筋書きのあるドラマ。ここには神様が降りてこない。

じゃあ、、、これに対して、筋書きがない方の動作はどういうことになるかというと・・・

「挙げよう」という意識がないのに、気がついたら上がっていた、というような状況です。

なんじゃそりゃ?って思うかもしれません。
でもね、相撲のテレビ中継の力士インタビューで、こんなコメントを聞いたことないでしょうか。

聞き手「まわしをとるのが早かったですね。狙ってたんでしょうか?」
力士 「・・よくわかりません。体が勝手に動きました」

ほら、力士は、意識がないところでも体が動くんですよ。

といってもこれは、鍛え抜いた力士ならではの感覚。
力士じゃない人にはどういう感覚なのかわかりにくいでしょう。正直、僕にも「まわしを取る」動作のことは、あまりピンと来ません。

でも、例えば「片足で立ってバランスをとる」だったらどうでしょうか。

実際に片脚立ちになってみればわかりますが、足の裏の重心位置が細かく前後左右に動いて、それを修正すべく、足指や足の裏の筋肉が、ぴくぴくと動きます。
このとき、「あ、内側に倒れそうだから親指に力を入れよう」とか、そういうことは考えていないですよね?
つまり、意識していないのに、体が勝手に動いている。

「バランスをとる」という作用は、人体に備わった最も基本的な無意識動作のひとつ。
ここで働く筋肉のひとつひとつは、その気になれば意識的に動かすことも可能です(足の指を曲げたり開いたり、できますよね)。
でも、バランスをとるためには、意識的動作では間に合わないんです。

Wii Fitというゲームに、片足立ちでなるべくぶれないようにバランスをとるメニューがあります。
このとき、乗っている台のセンサーが重心の動きを感知して、前後左右のぶれをドットの動きとしてテレビ画面に表示するのですが、そのぶれを目で見ながら修正しようとすると、かえってバランスがどんどん崩れていきます。ほんと、笑っちゃうほどぐらぐらしてしまう。
むしろ画面はなるべく見ないで、体のバランス感覚に任せてしまうほうが、ぶれが少なくなる(だからゲームとしてのポイントも良くなる)のです。

で、、、片脚立ちよりもう少し繊細なバランス感覚を要求する状況を作り出すのが、たとえばこんな装置。
ボディバランスボードといいます。作っているのは、まるみつという会社。



この動画、以前にも一度このブログに載せたことがありますね。今年の4月ごろ。
そのときもお断りしましたが、ほとんど動きのない映像が2分ほど続く、とても退屈な動画ですのでご了承ください(笑)

これなんか、「バランスをとろう」と思ってがんばるほど、バランスがとれなくなります。
だから例えば時計を見て時間を計りながら、「1分達成まであと10秒、9、8、7、・・・」みたいにやると、まず間違いなく、56~7秒ぐらいで倒れる(笑)
何となくぼんやり立っているぐらいがちょうどいい。すると、体が勝手に動いてバランスをとってくれるのです。

こんな動作のときによく働いているのが、「インナーマッスル」と呼ばれる筋肉群です。
体の内側(深層)にあって、主に姿勢やバランスを支えたり、情動変化に伴う体の変化(表情とか、呼吸とか)を担っている筋肉群。
立ってバランスをとるという動作で大きな役割を果たしているのはたぶん、大腰筋や腰方形筋、中臀筋などでしょう。

一方、意図的な動作(筋書きがある方)では主に、アウターマッスルが働きます。こちらは体の外側(表面近く)にある筋肉群。
足腰まわりなら、大腿四頭筋や大殿筋などがあります。

で・・・体のシステムとして、どうもアウターマッスルが強力に働くと、インナーマッスルの働きは抑えられてしまうのですね。
インナーマッスルが働くためには、アウターマッスルには力が入っていない、リラックス状態である必要がある。

ということは・・・
何かの動作をするときに、「よし、こうするぞ」と思って動いていると、インナーマッスルはうまく働かないのです。
考える前にとっさに動いた、とか、あたかも体が勝手に動いたかのような感覚を伴ったときに、インナーマッスルが働いているのです。

「ああやったらこうなって・・・」という筋書きに沿って振る舞おうとするときは、なかなかこうなりにくいことは、ご理解いただけると思います。
別の言い方をすると、自分の意志で体をコントロールしようとすると、うまくいかないのです。
自分の意識で制御できる範囲を超えた、体の中のメカニズムに「お任せします」といってポンとゆだねてしまうような心境になったときに、こっち側のスイッチが入るわけです。

で、、、そういうときに、神様が降りてくる。

ボディバランスボードにしばらく乗ったあと床に降りると、体の中の感覚が全然違っていることが感じられます。
肩や胸の力がすとんと抜けて、腕がだらんとぶら下がって、呼吸がゆったりと深くなり、、そして体の中心をずどんとを貫く、軸のような感触があります。
その軸は、鉄柱のような固い感じではありません。むしろそれ自体が生き物のように息づいている。呼吸に伴って伸び縮みするし、太くなったり細くなったりもしている。
その周りで、体全体も、膨らんだり縮んだりしている感覚があります。

そして、その全身的な膨張・収縮の中心点(息を吐いたときに全体がぐーーーっとまとまっていく中心)にあたるのが、いわゆる臍下丹田と呼ばれる一点です。

丹田は、体の重心点でもあるので、ここにずしっとした重みを感じます。文学的にいえば、「地球とつながっている感じ」がするのです。そしてその一点を中心に、全身がくまなくぶわーーーっと呼吸している。そんな感じ。

「自分がやっている」という感覚は、そこにはない。

「おお、体が呼吸している、命が脈うっている!」みたいな感じです。

そこから、「私は生かされている」みたいな心境もわいてくる。

これを「神様が降りてくる」と呼んでいけない理由はありませんよね。

で・・・もうひとつ大事なのは、そういう状態のときの方が、例えば体のバランス感覚が良い、ということです。
バランスをとるには、インナーマッスルが稼働した方がいいのです。
バランスだけではなく、瞬間的な反応速度とか、動作の滑らかさなども、この状態の方が優れているはずです。
おそらく、身体的な運動能力全体でみても、こういう状態の方が高まっている部分はたくさんあるだろうと思います。

そうであれば、こういう体の状態を実現できる力士の方が、実際の相撲も強いことは、十分に考えられます。
逆に、目の前の相手に向かって「勝ってやる、負けるもんか」などと闘争心をむき出しにしたり、「よし、当たったあとに右の上手を取って・・・」などと頭の中で計略を巡らせることは、むしろパフォーマンスの足を引っ張りかねない。

さらに、外から見たときの姿の美しさという点でも、この状態の方に分があるでしょう。
体のラインを作る外側の筋肉が緊張せず、滑らかで柔らかい姿勢や動作が現れます。

であれば、舞台芸能においても、こういう体の状態を実現できる演じ手の方が優れていることになるでしょう。

野口体操には、「信ずるとは、負けて、参って、任せて、待つこと」という言葉があります。
この場合、信ずる相手は、直接には自分の体でしょう。
自分が体を抑えにかかったり、制御しようとしたりしている限り、いい動きはできない。
「参りました」と頭を垂れてすべてお任せするような心境になったときに、体の中からいい動きが出てくる、というわけです。

そんなとき、体は、自分の身体的範囲に収まる1個の物体に限定された感覚ではなくなります。
その向こう側に大自然、世界、宇宙が広がっている、そんな超越的な存在として感じられるのです。

そんな体と、向き合う。

だから、「体操は祈り」なのです。

ということで・・・・きれいにまとまった感じに見えるこのテーマですが、、、
実は、もう少し続きがあります。
年末年始の時間に余裕があるうちに、できればもう1回、取り上げたいと思っています。