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能楽のワークショップを通じて考えた、人間の精神に「神様」が宿る条件

今年もいよいよ押し迫ってきました。

皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

このところいろいろ忙しくて、ブログがすっかり閑古鳥状態でした。

まあ、このご時世、やることがあるのはありがたいことです。

 

で、、、そうはいっても年末はゆったりしたいな、ということで、いま鬼怒川温泉に来ています。

以前も何度か来たことがあるけど、今回は久しぶり。2、3年ぶりかな。

 

「ゆったり」といいつつも、パソコンとか、いろいろな資料とかを抱えてきて何だかがちゃがちゃとやっているのですけど、それでも自宅とは環境が違うし露天風呂は気持ちいいし、窓の外の眺めも何だかのどかなので、多少ゆるゆるした感じになっています。

 

そんなわけで、ちょっとブログでも書こうか、と。

 

もうずいぶん日が経ってしまいましたが、12/18に、能楽師の安田登さんが開いている寺子屋へ、久しぶりに行ってきました。

 

普段は論語など中国古典を読んでいるこの会ですが、この日から5回連続で、能の「隅田川」の解説シリーズとなっています。

3/9に安田さんたちが企画した隅田川の公演があり、それに向けて、能を楽しむための予習をしておきましょう、、、という趣旨。

 

ただし、“予習”といっても、単に物語のストーリーを理解しておくといったものではありません。

そこは、「能」という芸能特有の、独特の身体的な備えがあるのです。


そういう備えを多少でも体得しておくかどうかで、当日どれだけ楽しめるかが全く違ってくるといいます。

能は、現存する舞台芸能の中で、世界最古のスタイルなのだそうです。
なにしろ世阿弥が活躍したのは室町時代初期。いまから600年以上前のこと。
その当時のスタイルが、かなり忠実にいまへ伝えられているらしい。

もともと僕は、能というものに何ひとつ興味を抱いていなかったのですが(まあ元来がばりばりの理系人間だし、、、中学高校の古文の授業はほとんど寝て過ごしました・・・)、安田さんとの出会いを通じて、この芸能が持つおもしろさを、自分なりに感じるようになってきました。

現代のさまさまなエンターテインメントの中でいうと、能は、「舞台芸能」というジャンルに当てはまります。
このジャンルにはほかに、演劇やミュージカル、オペラ、バレエ、各種ダンスなどが入ります。
音楽のライブも、まあ近しいものといえるかな。

そういうものと比較したとき、能にはひとつ、極めて例外的な特徴があります。
おそらく能というものの本質的な意味と深く関わっている、独特の特徴。

それは、「リハーサルに当たる段取りがほとんどない」ということ。

いやもちろん、「練習」はします。
それは、古典芸能特有の厳しさで、各自がすごい修行をするらしい。
でもそれはあくまで、「各自がする」のです。
シテ方ワキ方、音楽担当・・などと分担されたそれぞれが、それぞれの師匠のもとで修行したうえで、その人たちがわっと集まっていきなり本番を演じる、というのが通常の流れ。
軽い申し合わせがある場合もあるそうですが、全編を通すことはまれらしい。

これ、僕も安田さんに教えてもらうまでは全く知りませんでした。
最初に教えてもらった時も、そこに特に深い意味を感じることはなかった。
「へー、そうなんだ」って単純に思っただけだった。

でも今では、これが能というものを成り立たせているとても大事なしくみなのだろう、と考えています。

演劇であれ、ダンスであれ、音楽であれ、舞台芸能としてお客さんに質の高い内容を見せようと思ったら、入念にリハーサルをする方がうまくいくと考えるのは、普通に考えればまあ当然のことでしょう。
この理屈はたぶん、600年前に持っていっても通じる話だと思うんですね。

なのに600年前に能のスタイルを作り上げた人たちは、リハーサルに相当する段取りをしないというやり方を、わざわざ選んだ。
それ以降、能を伝えてきた人たちも、その部分をそのまま守ってきた。
各自は修行するけれど、全体を演じる部分は、あえて「ぶっつけ本番」的なスタイルで行く、という方法を、とても大切にしているわけです。

これはなぜなのか?

おそらくその答えはこうです。
能は、今の僕らが考える「舞台芸能」とは全く違う意味を持つ存在だから。

じゃあ、どんな存在なのか、ってことですが。

それを考える材料として、現代のエンターテインメント的なものの中に、リハーサルをしないものがないか、と考えてみます。

まあ、ジャズや一部の現代音楽のような即興性の高い音楽では、あえてリハーサルなしという企画をすることもあります。演劇やお笑いの分野でも、そういうケースは時折あるようです。
でもそれはあくまでも例外。「あえてしない」が売り物になるぐらい、リハーサルをすることが当たり前なのですから。

ところが、「各自が練習したうえで、わっと集まって、ぶっつけで本番に臨む」という流れにぴったり符合する巨大なジャンルが、現代にもあります。

それは、「スポーツ」。

例えばプロ野球をみてみます。
選手たちはチームごとに練習をしていますが、試合のリハーサルなんてものは、当然ながらありません。
シーズン前には練習試合(オープン戦)があるけど、あれはあくまで練習の一環。この場合は、投手起用を事前に「先発の誰それは5イニング、2番手以降は1イニングずつ」みたいに決めておくパターンがよくあります。
でも実際に登板してから何が起きるか、ストーリーが決まっているわけじゃない。
ましてレギュラーシーズンが始まれば、試合はすべて、その場その場での1回勝負。
事前に打ち合わせたり、筋書きを練ったりすれば「八百長」です。

これは、サッカーでもテニスでもゴルフでもマラソンでも、状況は共通でしょう。

まあ、米国系のプロレスなんかでは、脚本家に当たる人がストーリーを作ってリハーサルをして・・・みたいな段取りが普通にあるらしいですが(笑)
でも、だからプロレスはスポーツじゃない、エンターテインメントだ、っていわれるわけですよね。

で・・スポーツはよく「筋書きのないドラマ」なんていわれます。
オリンピックの中継などで多用されまくってもうすっかり手あかがついたくさいキャッチコピーですが、演劇などのような「筋書きのあるドラマ」との違いを示す上では、わかりやすい説明といえます。

筋書きがなくて、やってみなければどうなるかわからない、そのスリル感、生々しいダイナミズムが、筋書きがあるエンターテインメントでは得難いレベルの感動や興奮を呼ぶ、ということなのでしょう。

スポーツを生で観戦するのが好きな人なら、何を言っているのか実感としておわかりいただけると思います。
一寸先で何がどうなるかわからないぎりぎりの状況が、ぱっと一転して、ワァーッと盛り上がったり、みんなが一斉にため息をついたり、涙を流したり・・・

現代においては主にスポーツの現場で発生するような、ああいう高揚感を作り出すことを、実は能も指向しているのではないか。
だから、リハーサルしないという方法を選んだのではないか。
と、そんなふうに考えてみたらどうでしょう。

おやおや、話はずいぶんぶっ飛んだところに来ました。
だって普通に考えたら、スポーツ観戦のあの絶叫的に盛り上がる感じと、能の舞台のまったりゆったりした空気では、あまりにも大きなギャップがありますもの。

まあ、スポーツと能には、もちろん大きな違いもあります。
一番大きな違いは、スポーツには勝敗がつきものだということでしょうね。能にはそれがありません。
だから、「勝った負けた」にともなうスリルの部分は、はずして考える必要があるのかもしれない。

※能の歴史をひもとくと、「立ち会い能」という演者集団同士の勝負を主眼とするイベントが盛り上がっていた時代もあったようですが、その辺は詳しくないのでパスします。気になる人は自分で調べてね。


ただ、いわゆるスポーツ的なものの中にも、勝負一辺倒じゃないものもありますよね。
その代表例は、相撲でしょう。

相撲は、いまでこそ勝ち負けが最重要視されてスポーツの一種のように見られていますが、相撲の起源は「神事」です。
神様の前に奉納することで、その場に神様が降りてくる。参加者がみんなそれを実感し、何かしら感動を共有する。
そういう場を作り、体験をするための舞台として、相撲という行為が行われたわけです。

ということは、相撲というプロセスの中に、「その場に神様が降りてくるための段取り」的な要素が含まれているに違いない。
力士がああいう所作をして、体をぶつけて相撲を取り、周りはそれを観て「おおおっ」とかいいながら盛り上がる、そういう一連の営みそのものが、「ああ、いまここに神様が降りてきたなぁ」と感じるような精神状態を作り出すための方法として、機能するはずなのです。

で、その「一連の営み」の中に、相撲が「筋書きのないドラマ」である、ということも要素として含まれている。
ということは、、儀礼的な儀式を粛々とやるより、そこで「筋書きのないドラマ」が展開されて、それに伴う精神的高揚が生じた方が、よりビビッドに神様を感じられる、そんな事情があるんじゃないか。

いきなり神様なんて言い出すと引くかもしれませんけど・・・
でも、ほかのスポーツでも、似たようなことがあると思うのですよ。

例えば、甲子園で行われる高校野球には、連日スタンドに通うような熱烈なファンがいます。
自分の出身地のチームを応援するという勝敗にこだわった見方とは別に、トーナメントならではのぎりぎりの全力プレーに「どっちもがんばれ」と声援を送り、そこに生じる雰囲気そのものに浸ることを愛するようなスタンス。
これなんか、「甲子園の神様が降りてくる」という表現がいかにもぴったりあてはまると思いませんか?

そんな感じの、あるタイプの高揚感を作り出すためには、「筋書きのないドラマ」であることが大事だった。

「神様」っていう表現がピンと来なければ・・・

「現実世界を超越した何らかの力のようなものを感じる」ぐらいに言っておきましょうか。

これだったら・・・そうですね、例えば麻雀をやっているときなんかでも、そういう“何かが降りてきた”的な感じを実感する人が、いるにちがいない。
「お~~きたぞきたぞぉぉぉ!!」なんていいながらやってる人、いますよね。
麻雀もそういう意味では、立派な「筋書きのないドラマ」です(笑)。

で、、、、話があちこち行きましたが、いずれにしろ能も、「筋書きのないドラマ」的な性質を重視するがために、リハーサルしないという方法を採用したのではないかな、と。
「筋書きのないドラマ」だからこそ達成できる、何か超越的な実感を伴う心理状況が、能においてとても大事なんじゃないか、と。

もちろん、能には台本があります。
そういう意味では、筋書きは決まっている。

でも、そこでリハーサルを外す(やらない)ことで、筋書きのなさ的な要素をむしろ意図的に取り入れようとしたんじゃないか。そんなふうに思えるわけです。

というのも・・・

多くの能において、シテ役が演じる主人公は、幽霊なのです。

すでに死んで、この世にはいない。
でもいろいろな事情で成仏もできず、この世とあの世の境目をさまよっている、そんな物語が展開されます。

これは、、、神様とはちょっと違うけれど、超越的な存在には違いないですね。

現実世界を支配する理性的なロジックから飛躍したところに立たないと、お話がそもそもフィットしない。

ということは、、、、能は、「台本に書かれたストーリーをうまく演じてお客さんに見せる」という意味での舞台芸能ではなくて、、

「その場に幽霊を降り立たせる」ことに傾注しているといえるのではないか、と。

能が今のようなスタイルになっていくまでの歴史の中には、寺社との結びつきの中で栄えていった時代もあったようです。
力を持つ寺社の庇護のもと、祭礼の場で寺社の由来や神仏のお話を演じ、それが祭礼の重要な要素になっていった・・・
つまり、能もまた、一種の神事だったわけですね。

神事として機能するには、リハーサルをしない方がうまくいく。
たぶんどこかの時代で、誰かがそのことに気がついたんじゃないか、と、そんな想像をしています。

さてさて、、、長々と書いてきて、お話は一応このへんで完結しますが、実は僕にとっての核心部分にはまだ到達していない(笑)

それは何かというと・・・

「神事」的な性質が実現されるうえで、身体性がとても重要な役割を果たしている、という部分です。

僕が取り組んでいる野口体操の創始者である野口三千三先生は、「体操は祈りである」という名言を残しています。
これは、体と向き合うことを極めていくと、内面において確実に、「祈り」的な精神性が発生する、という意味でしょう。つまり、神様が降りてくる。

相撲や能が神事として機能していたことと、この野口先生の言葉の関係についても、いつか取り上げてみたいと思っていますが・・・さて・・・