だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

どうしてライブをするのだろう?

1年半ぶりぐらいの本格的なライブが終わって2日。

 

滅多にやらないことをするのは、準備もそれなりに大変だ。

 

日ごろ適当に弾き流している曲を、一音一音確認しながら繰り返しきっちりと弾いて、フレーズの流れやアクセントを確認する。

機械的な操作としてのギター演奏を、パフォーマンスと呼べるような表現に少しでも近づけるべく、さまざまなアイデアを試し、磨きあげる。

 

いやそれ以前にまず、ちゃんと弾けるように何度も練習しなきゃいけない場合も多い。

 

そんな場合は、同じ曲を、繰り返し繰り返し、延々と繰り返して弾く。

 

けっこうしんどい作業です。

 

そして本番。

僕は実は、かなり緊張しやすいたちなので、前日あたりからそわそわドキドキが収まらなくなることも多い。

本番当日は、息が苦しくなったり、指が震えてくることも。

演奏中に指が震えてもつれてきたりすると、もう、なんとも言葉にしがたい、情けなくて苦しくてたまらない気分になる。

 

すべてを止めて、ごめんなさいっていってその場から逃げてしまいたい、そんな心境だ。

 

そんなとき、ふと、思う。

 

「どうしてライブなんかやってるんだろう?」

 

ギターを「趣味」と考えれば、人前で弾かなきゃいけない理由はない。

自分が好きなように弾いて、楽しめれば、それでいい。

 

そういうスタンスでいることに、だれも文句はないはずだ。

 

なのにどうして、わざわざこんなことするのか?

 

この問いに対するひとつの理想的な答えとして、「人に聴かせたい」「表現したい」という欲求がほとばしった結果ライブ演奏をしている、という幸せな人が、世の中にはたくさんいると思う。
そういう人はたぶん、そもそも「どうして?」なんていう問いを立てたりしない。

でも自分の中にはそういう問いが浮上してくるのだから、自分がライブをするのは、素朴で強烈な表現欲があふれているから、ではない。
少なくとも、それが筆頭の理由ってことはない、と思う。

じゃあなぜなんだろう?

イヤイヤやっている?何かに強制されている?

いや、止めようと思ったらいつでも止められます。全然、義務じゃありません。
現に、過去には何年もライブを止めていた時期がある。
まあ、予定が入ってしまったライブをキャンセルするのは難しいけれど(でもそれも、やってやれないことはないですね)、新たな予定をこれ以降入れないようにするのは、その気になれば簡単なことだ。
プロのミュージシャンと違って、演奏活動を止めたからといって経済的に苦しくなるわけでもない。
むしろ諸コストがかからなくなるとか、ギターに触れている時間をいわゆる本業に割けるとか、そんなふうに考えれば、実入りの面では得になるかもしれない。

なのにどうして、細々とながら、続けているんだろう?

振り返ると、僕はライブ活動を始めてから、ずーっとこの自問自答を続けてきたように思う。

ってことは、しんどいとか、止めたいとか、そういう心境が、今なお消えていないわけだ。

実際、今回のライブの準備をしている最中にも、「あーあなんでまた、ライブなんか受けちゃったんだろうなぁ~」っていう思いがふっとよぎったことが、何度かあった。

パフォーマンスという行為の姿勢を厳しくとらえるなら、演奏者本人が公開のブログで、こんな言葉を発すること自体、本来は御法度だろう。
特に、プロのミュージシャンなら、絶対にやってはいけないことの部類に入るかもしれない。

僕はいわゆるプロではないけれど、次回9/29に国分寺クラスタで予定されているライブなどは、れっきとしたライブハウスでチャージもしっかりとるのだから、そういう意味では「禁を破っている」といわれたら、返す言葉は見つかりそうにない。

でも、人間の体や心の内面について考察し、コトバにすることは、自分にとって大事なパフォーマンスのもう一方の極にあることなので(というか、どちらかといえばそちらの方がプロなので)、自分の中に絶えず湧いてくるこの問いをスルーすることはできない。

それに、ここで問題視しているのは、「なんでこんなことやってるんだろう」と心の中でつぶやきながら、それでも続けているその根源的動機は何なのか? ってことだ。
これは、若干まわりくどい設定だけれど、「止めたい」と表明しているわけじゃない。
ときに、もう止めたいって感じるほど忍耐や緊張を強いられることを、それでも止めずにやっているのはなぜだろう?と考えているわけだ。

なぜ、止めないんだろう。

ギターを弾くことが嫌いなわけじゃない。
一人で弾くなら、気楽だし、まあそれで十分に楽しめる。

人前で弾くことによって、そこにテンションがかかる。

考えてみると、こういう構図は、楽器演奏に限ったことではない。
生活の中で行っているさまざまな行為に当てはまることだ。

例えば食事をする。
家の中で一人で食べていれば、どんな姿勢で、どんな食べ方をしても、本人の勝手だ。
ほおづえをついていても文句を言う人はいないし、みそ汁をズルズル音を立ててすすってもいい。
ご飯に牛乳をかけようが、みそ汁に砂糖を入れようが、本人の自由。

でも、いろいろな人を交えた会食の場ともなれば、一般にマナーとか礼儀といわれるような最低限のルールに従わなくてはいけない、というテンションがかかるだろう。

それを、堅苦しい、面倒なことと感じる可能性もある。
「もうこんな肩の凝る会食は勘弁して」って思うかもしれない。

なのに、次回誘われたときに、また出かけていく・・・となったとすれば、それはなぜか?
なぜ、気楽な「一人食」を選ばないのか?

こんなふうに、食事に置き換えて考えてみると、答えは何となく見えてくる。

「一人で食べる」より「人と交わりながら食べる」ほうが、おいしいし、楽しいからだろう。

食事を栄養摂取ととらえるなら、どんな環境でどんな方法で食べても一緒のはずだが、「幸せになるための時間」と考えると、一人で食べるのは、ほとんど何ももたらさない。
そんな実感があれば、多少テンションがかかる会食でも、誘われればきっと出かけていくだろう。

人前の演奏は、緊張する。ストレスと呼んでもいいほどだ。
その結果、演奏がぼろぼろになることもある。

でも一方で、一人で弾いているときには絶対に味わえないような高揚感や、その結果としてスリリングなスーパーパフォーマンスが現れることもある。

緊張するのは、人前で「失敗しないように」と考えるからだろう。
ストレスで揺らがないように自分を守りにかかったとき、その緊張が、体と心を固めてしまう。

一方、聴き手の存在によって演奏がすばらしくなる場合は、むしろ、聴いている人のノリや呼吸を感じることによって、それまでの自分の殻がはずれて、中から新しい何かが湧いてくるような感覚がある。

内側に向かって固まるのではなく、何か違うものが生まれてくる感じ。

いや、、、、考えてみると、ひとりでも、そんなふうになることがないわけではない。
新しい曲やすばらしいアレンジのアイデアが降りてくるときの精神状態は、少し似たような感覚だ。

でも、ライブ中にそんなふうになるときの感覚は、何かもうひとつ、違うような気がするんだな。

どう違うのか、ライブ機会も、すばらしい曲が降りてくる機会も非常に少ない自分には、はっきりと言葉にできない。
そもそも、そっちに向かわずに、固まる方向に進んでしまうこともままあるわけで(笑)

ただ、そんなふうにして、自分一人で弾いているだけでは得られない、殻がはずれるような感覚にたどり着く可能性がそこにあると思うから・・・・「なんでこんなしんどいこと、受けちゃったかなぁ」とか思いながら、それでもライブをやっているんだと思う。