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セミの声に感じる夏本番、そして「パラダイムシフト」論

連日暑いですね〜

今日は7月最終日。てことは、まだ夏本番の8月は、この先なんですね。

ウワーまだまだ暑いんだなぁ・・・

 

僕は、取材で飛び回るような日以外は、家の近所の公園(結構でかい運動公園)の散歩を日課にしています。

ときどきジョグになることもあるんだけど、この季節はまあ、のんびり歩くことが多い。

毎日同じようなコースで、同じ木々を眺めていると、季節の変化が徐々に感じられるのが気持ちいい。

 

先週〜今週にかけて、この界隈では、セミが一気に増えましたね。

ほんの1週間前まではまだぽつん、ぽつんって感じだったのが、もう真夏の合唱になっています。

 

ただ、よく聞くと、まだ羽化して日が浅いセミが多いな、ということも感じられる。

とくによくわかるのはミンミンゼミですが、「ミーンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミ〜〜ン」という鳴き声の「ミ」のところに、全部濁点を打ちたくなるような、超音波めいた高周波音成分が、強烈に響いています。

これが何日もたつと、セミの発音装置の構造(振動する膜と、共鳴させる空洞がある)のどこかが傷んでくるのでしょうね、高周波成分が減って、かすれた感じの音を出す個体が増えてきます。

 

ミンミンゼミの成虫の生存期間は、2〜3週間だそうです。

お盆前後までいくと、そんな感じの鳴き声が増えてきて、徐々に秋めいた空気になっていくのでしょう。

 

ところでミンミンゼミは、この2〜3週間飛び回る期間(成虫としての期間)の前に、6〜7年も幼虫として地中に潜って暮らします。

そんな長時間土の中で過ごしていたのに、地上に出るとあっという間に命が終わってしまう、そんなセミのライフサイクルに、ある種のはかなさを感じる人も多いと思います。

 

僕も子供のころから、そんな感傷的な気分が少しばかり混ざった意識で、セミという生き物を見ていました。

それがあるとき、「あれっ?」って気づいたことがあって、見方がけっこう変わったのです。

 

その「気づいたこと」について、確か以前、ブログに書いたはず・・・と思って検索したら、はい、出てきました。2008年12月20日のエントリー
なぜ冬のさなかに、セミについて考えていたのかはよくわかんないけど(笑)

冒頭部分を引用してみます。
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僕らが知っている「セミ」という生き物は、夏になるとわさわさ現れて、びゅんびゅん飛び回ってビービーうるさく鳴いて、そのうち地べたにぽとぽと落ちている、あの小さな虫です。
1匹の生涯でいうと、飛び回ってる期間はせいぜい2,3週間、といったところでしょうか。
そこで交尾をして、子孫を残したら、あとはもう終わり。

そうやって地上に出てくる前に、7年ぐらい土の中で育つわけです。
土の中で過ごしている状態のことを私たちは「幼虫」と呼び、出てきて飛んでるやつを「成虫」と呼びます。
そう名付ける背景には、「幼虫」は途中経過の仮の姿で、完成した本当のセミの姿はあの飛べるやつ、という考え方があるでしょう。

でも、すごく単純な話、7年と2週間の長さを比較すれば、セミの生涯の大半は、私たちが「幼虫」と呼ぶあの姿でいるわけです。
とすれば、これはもう、セミとはあの「幼虫」と呼ばれる姿の虫だ、と考えても、本来何の不思議もない。最後にちょっと妙な変化が起きて、飛べる時期がくっついているだけ。
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えっと、、(笑)これだけじゃあちょっとわかりにくいかな?

つまり、「成虫」「幼虫」という言葉の裏側に、

幼虫=土の中=不自由
成虫=飛べる=自由

こんな構図が暗黙のうちにあるんじゃないかってことです。

飛べる“本当の姿”になって、初めて幸せになれる。
それまでは飛べる日を夢見ながら土の中で耐えている、などと無意識のうちに想定しているから、せっかく出てきたのにすぐ死んでしまうのを「はかない生涯」などと意味付けたくなるんじゃないか、と。

でも、、、これは明らかに、人間が作り上げた勝手な意味付けです。

あるいは、こんな構図も透けて見える。

幼虫=子供=準備期間
成虫=大人=人生本番

人間の人生を眺めた場合、大人になって、収入を手に入れて、子供のときはなかった社会的な自由度や責任を得て、結婚もして、子供もできて・・・っていう段階になってからが人生本番である、という見方は、まあ一般論としてはおおむねその通りでしょう。
子供時代は一人前(大人)になるための準備期間。
で、人生の本当の幸せとか、充実感などは、大人になってから得られるものだ、と。
(いや、子供時代の方が幸せで充実していたんじゃないか?という見方にも大いに説得力があるような気もしますが、、、そこは今日は深追いしない・・・笑)

ただ、このような「子供」「大人」に対する見方をそのまま、セミの「幼虫」「成虫」に当てはめると、2週間で死ぬ姿が「はかないね~」になる。

もちろんこの見方は、生き物の大きな生存目的は子孫を残すことであり、成虫とは子孫を残せるように成長しきった姿のことである、という生物学の原則と合致しています。そういう意味では、合理的です。

とはいえ、、人間の「大人」と、虫の「成虫」の意味合いが完全に一緒であるはずもない。
生物学的な意味の範囲を超えて、人間でいう「大人」という意味をセミにまで広げて適応したから、「はかないね~」になるのです。

そんな見方が、無意識のうちに、自分の中にもあったのでしょう。

ところが、そうじゃない見方もあるよな、ってことに、ふと気づいた。
「セミとは、主に地中で生きる生き物である」と言い切ってしまえば、すっきりするじゃん!ってひらめいたわけですね。
それが2008年12月20日。

さっきのブログエントリーは、こんなふうに続きます。
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たとえば人間の生涯と比べるなら・・・ヒトは、生まれて最初のころに、四つ足ではいはいして過ごす期間がありますね。半年くらいかな。で、1歳ぐらいになったら2足歩行ができて、そのあと70年とか80年とか生きる。
この半年:70年という比率は、セミの2週間:7年という比率と、だいたい一緒です。順番が逆なだけ。
それで人間のことを「はいはいする生き物だ」と見なしたら、すごく変ですよね?
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まあ、へりくつだといわれればその通りですけど(笑)

ただ、「セミ」という生き物の生涯を見るときの枠組みがガチャッとずれて、一種の人生観の転換が起きたことは事実でしょう。
大げさにいうなら、パラダイムシフト。

そりゃあ大げさ過ぎ?(笑) いやでも、いわんとしているのはそういうことです。

さて、なんでこんなお話を延々書いてきたかといいますと・・・

昨日のブログで、「学ぶ」ということについて触れました。

今日のこのセミのお話のテーマも、実は「学ぶ」です。

「学ぶ」という行為は一般に、「わからなかったことがわかるようになる」という変化を引き起こします。

で、「わからなかったことがわかるようになる」プロセスには、大まかに2種類あると思うのです。

(1)すでにある「枠組み」の中に、未知のものごとを当てはめる

(2)「枠組み」自体を拡張または変換して、未知のものとつながりを持つ

2週間で死ぬセミの姿を「はかないねー」と感じるのは、人間の人生をふまえて自分の頭の中に出来上がっていた、生き物の生涯に対する理解の枠を、セミにも当てはめたからです。
別に、それが悪いっていいたいわけじゃありません。
人間という生き物の頭はそもそも、そういう枠なしでは、ものごとを理解することができないようになっているからね。

ただ、その枠が堅牢である限りは、どこまでもその枠に根ざした見方、解釈を積み重ねることにしかならない。
そうやって得られた「わかった」は、頭の中の情報量を増やしはするでしょう。
それも一種の学びではある。

でも、枠がカチャっとずれて、「セミは土の中で生きる生き物、という見方もあるよな」と気づいたときに、それまで「はかなげ」という色付きでしか見えなかったセミという生き物の、見えていなかった側面がぱっと見えた(ような気がした)、そういう世界の広がり方は、(1)的な学びからは得られないと思うのです。

そんなふうにして「世界の見え方が広がる」経験が、学びを通じて達成される「成長」の本質なんじゃないかなぁ、と思う。

セミの話は、相手がセミであるかぎり、こっちが固定的な枠による解釈をいい続けても、彼らの方から文句が出ることはないでしょう、たぶん。
いや、ほんとのところどう思われているかはわかりませんけど(笑)

でもこれが、相手として異文化の人間集団を想定するとどうでしょう。

そこにおいて、学ぶとは、「わからなかった人たちのことをわかるようになる」プロセスってことになります。

そのやり方にも、2種類あるわけですね。

(1)すでにある「枠組み」の中に、未知の人々を当てはめる

(2)「枠組み」自体を拡張または変換して、未知の人々とつながりをもつ

大きな違いがあることは、おわかりいただけると思います。

(1)的な方法でしか未知の人々と接することができない人と、(2)的な方法が使える人と、どちらがより深く相手と交わり、理解することになるか。
答えは明らかだと思います

ちなみに、(1)的な「学ぶ」手法をどこまでも追求しているのが、サイエンス。
例えば人類学のような分野で、文明化が進んでいない人々のところへ研究者が入り込んで、その人々の暮らしぶりを分析するときに、しばしばとられたものといえます。

(2)的な「学ぶ」は必然的に、論理的な飛躍、つまり直感的理解を含みます。
枠組みがぐりっと転換するんですからね、整然と進む話じゃない、どこかでボンと飛躍しなきゃおかしい。

現代において、(2)的な「学ぶ」を意図した活動は、どこで行われているんでしょうね?
(1)的な「学ぶ」ばかりが幅を利かせているようにみえて、、、なんかねぇ、、この国はほんと、大丈夫なんだろうかと思う今日この頃。