だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

「腹が立つ」と「頭に来る」の違い

「怒る」という言葉とほぼ同じ意味を示す表現には、なぜか「からだことば」が多く見られます。

 

からだことばとは、「手」とか「目」とか「頭」といったカラダの部位の名称を含む表現です。「手先」「手下」といった熟語になっていることもあれば、「手を抜く」「手が出る」といった慣用句になってる場合もあります。「のどから手が出る」などと二重に使うこともあります。

 

やや古い本ですが、からだことばに関する名著があります。

からだことば―日本語から読み解く身体 (ハヤカワ文庫NF)
からだことば―日本語から読み解く身体 (ハヤカワ文庫NF) 立川 昭二

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で・・・この本にも出てきますが、「怒る」を意味する代表的なからだことばが二つあります。

 

「腹が立つ」

「頭に来る」

 

まあ、意味はほとんど一緒でしょう。怒りの種類によってこの2種類を使い分けているわけではありません。

でも、からだ的な感覚でとらえると、かなり違います。何しろ「ハラ」と「頭」ですから。

 

からだことばという表現が伝統的に成り立つのは、その言い回しが、からだで感じる感覚と、どこかでうまく合致していると、多くの人が納得するからです。

例えば冒頭で紹介した「のどから手が出る」でいうと・・・実際にのどから手が出るなんてことは、人間においてはもちろん起こらないし、もしのどから本当に手が出たら、それはからだ的にどんな感覚になるか、なんて誰にもわからない(当然です)。
でも、何かが欲しいと切望するような感覚と、「もしのどから手が出たらこんな感じだろうなぁ」と身体感覚的に想像するイメージが、うまく符合するわけです。
「ああ、うまいこというなあ、そうそう、そんな感じだよ」と、多くの人が納得する。だからその表現が、からだことばとして成立する。

で・・・「腹が立つ」と「頭に来る」にもどると・・・

「腹が立つ」の「立つ」は、「立つ、座る」の立つではなくて、「お湯が沸き立つ」という意味だそうです。
つまり身体感覚的にいうと、お腹の中でふつふつと何かが沸き立っているような、そんな感じを表しているといえるでしょう。
どうです、実感あります?

「腹が立つ」という言葉が成立した当時の日本人の身体感覚では、怒りとともに腹の中が沸き立つような感じが出てくる、といわれて、「ああ、わかるわかる」と多くの人が納得したのでしょうね。
だからその表現が、たくさんの人に使われ、言葉として成立した。

でも正直、僕は自分の感覚としては、あまりピンと来ないです。
ただ、以前ある鍼灸師の人に聞いた話だと、本人が自覚していないだけで、怒りを感じている人のお腹にふれると、奥の方がぎゅぎゅぎゅっと固まっていくような感触があるそうです。
つまり、自分は気がついていなくても、お腹は勝手に「立って」(沸き立って)いるってこと。

そういわれて気付いたのだけれど、僕はイライラが続くと、たいてい便秘になるのです。
そんなときにお腹のマッサージをしてみると、奥の方がガッチガチに固くなって、まるで一枚の板のようになっている。表面の腹筋も固くなっているし、みぞおちも固まっているのです。
そういえば、お腹マッサージのプロが僕のお腹に触ったときも、「ああ、ときどきいます、こういう鉄板お腹の人(笑)」って言ってました。

これは、腹が(沸き)立った結果なのだな、きっと。
自分の感覚ではピンとこないけれど、お腹は沸き立っていたに違いない。

さらにいうと、ピンときていないから(つまりお腹の感覚が鈍いから)、沸き立ったことに気づかないまま固まって、便秘になるのかもしれません。

一方の「頭に来る」。

僕には、こっちの方がからだ的な実感があります。
イラッと来たときに、眉間にキューーッと力が入っていく感じ。

そのままどんどんいくと、頭が痛くなることもあります。

で、先ほど紹介した本「からだことば」の中でも、「腹が立つ」より「頭にくる」の方が、より現代的というか、昨今はこちらの方がピンと来る人たちが増えているようだ、と書かれています。
まあ、昔の日本人が「ハラ」感覚に富んでいたけれど、現代はそれが薄れて頭でっかちな人が増えている、というお話は、多くの人にうなづいていただけるでしょう。

さらにもっと現代的になると、「むかつく」という表現もある。
この表現にはからだの部位は直接現れませんが、かなり身体感覚的な言い回しには違いないので、これも一種のからだことばといえるでしょう。
で、ここに表現されている身体感覚は、怒りがからだの中に入ってくることを拒絶して、吐き出すようなイメージがあります。

「腹が立つ」は、からだの奥深く(ハラ)で怒りを受け止めて飲み込むような、懐の深さが伝わってきます。
大人な感じといいますか。
そして飲み込んだその先には、怒りを納めるという道が見えている。
「腹に収める」とか、「腹に飲み込む」という言葉が示す通り、腹は、怒る場所であると同時に、その怒りを納める場所でもあるのです。

「頭にくる」の場合、怒りへの反応点が、腹よりもかなり浅い感じ。より表層で反応しているようなイメージがあります。
この状態になった場合、自分で納めるのはちょっと難しくなる。
すると「頭を冷やせ」ってことになる。
外からクールダウンして沈静化するわけです。

それでも「あっ、カッカしてる」と自分で気がついて冷やせば、まだなんとか収まるのかもしれない。

それが「むかつく」になると、からだの中の反応点がいっそう浅くなって、生じた怒りを体内に納めることなく、そのままダイレクトな形で打ち返している気がします。
怒りを納めようという意識自体が、そこにはもう感じられない。ストレートに拒否している感じです。

そのダイレクトな感じがもっと進むと、「キレる」。
自分のからだの中のバランスを保つために渡してあるロープのようなものが、プチッとキレて、からだの中がワーッとカオスになる。
そうなるともう、自分でも収集がつかない。

これが、同じ切れるでも、「堪忍袋の緒が切れる」だと、かなりニュアンスが違う。
堪忍袋っていうのは多分、お腹の中に収まった巾着みたいなもの。
巾着のひもですからね、普通、そんな簡単に切れるものではありません。
その「緒が切れる」が実感として成り立つのは、切れる前に相当溜め込む余地があるからでしょう。
現代の「キレる」が、ささいなことで突発的、暴発的に起こるというニュアンスを含んでいるのとは、対照的だと思います。

ここまでのお話をまとめると、次の2点に集約できるでしょう。

(1)「怒り」という感情は、身体的な感覚としてとらえられるものである。(だから「怒り」を意味するからだことばが、強い実感を伴う言い回しとして成立する)

(2)身体的な「怒り」の感覚にはバラエティーがあり、どうやら時代とともに変化している。大まかにいうと、反応点がからだの「深部」から「表面」へと移っている。

さてここで、お話は少しばかりそれますが・・
先日参加したボディワークのお話しをしましょう。

能楽師の安田登さんと、元力士の松田哲博さんが主宰したセミナーで、テーマは「身体の中の神話を体感する」。

能と相撲には、どちらも神様的なものに奉納する、つまり神事である、という共通点があるそうです。
ということは、その場に神様が降りてきて、参加者がそれを体感するという段取りが必要になる。
で、そういう感覚を体の中に沸き起こすための秘密が、能と相撲の所作などに隠れているのではないか、それをみんなで探ってみよう、という趣旨です。

まあ、いろんなことをやったのですが、ここで紹介したいのは、実際に相撲のように組み合って押し合ったときの、体の感覚の実験です。

相撲は神事であると同時に、当事者に取っては勝負事でもあるので、組んで押されると、「押されたくない」「負けるもんか」みたいな気持ちが、たいていの人の心の中に湧いてきます。
ワークショップなのに、思わず一瞬、キッとムキになる感じ。

これは、体感的には、「怒り」にちょっと近い感じなのです。

で・・・たいていの人はそういうとき、「頭に来る」的な状態になってしまうのですね。
少なくとも、僕はそうでした。
まあ、現代人はたいていそうなるのでしょう。
すると、頭や肩、みぞおちが力んでしまう。

こうなると、簡単に押されてしまうのですね。

ところが、最初に組み合ったときに、気分というか、体の内面の感じをうまいこともっていって、ハラに意識(重さの感覚)をどっしりと下ろすことができると・・・
あら不思議なことが、2つほど起きたのです。

ひとつは、相手が押せなくなる。感覚的なこちらの体の重さが、ぐっと重く感じられるようになったのです。

そしてもうひとつは・・・「頭に来る」的な状態が、すーっと退いていった。

じゃあその代わりに腹が立ったのかというと・・・いや、そうでもない。
むしろすーっと、落ち着いた感じ。余裕が出てきたのですよ。

さっきの、怒りに似たムキな感情は、どこかへ消えてしまう。

まあ、相手がもっともっと強ければ、ちょっとハラに下ろしたぐらいではどうにもならないケースも、当然あるでしょうけれど。
この手のワークショップに出てくる素人同士で押し合っているレベルでは、このぐらいのことでも、体で感じる感情が、ころっと変わるのです。

ハラには、それぐらい余裕というか、余力がある。

「なぜ?」っていわれても、なかなかよくわかりませんが。。

ただ、ハラに力がびしっと入った状態は、ほぼ自動的に、ハラ以外がよけいな緊張をしていない状態につながっているのは、間違いないでしょう。

おそらくそれは、ハラ=臍下丹田と呼ばれるポイントが、立位姿勢の人体の重心点であり、ここを中心点として身体操作をすると動きが最もスムーズになる、ということから来ている。
身体の各部位にかかる力学的(重力的)な影響を、体感として感知したとき、ハラに中心感覚的な意識が座ると、人間の体は自然に力みがとれるようになっているのでしょう。
すると体感的にもいい気分になるし、力も湧いてくる。

一方で、頭に来たり、みぞおちがこわばったり、むかついたりしているときは、体の中で意識が集中しているポイント(=緊張しているポイント)と、体の重心ポイントがずれている。
そこから、動作やバランス感覚の中に、ぎくしゃくしたきしみのような感覚が生じて、体内の不快感を募らせてしまう。

ということで・・

同じ怒るなら、「腹が立つ」怒り方がお薦めです(笑)