「怒ってなんかいない」と思っている人の中の、怒り

「怒り」の話、3回目です。

 

このブログ、長いこと休眠状態だったと思ったら、突然、今まであまり触れてこなかった「怒り」というテーマで盛り上がり始めましたが(笑)、きたむらは何で急に、怒りのことをそんなにこだわり始めたんだ?と思ってますか?

まあ、取材でお会いした名越センセに感化されたというのが直接的な理由ですが。

ただそれ以上に、「怒り」をキーワードに考えると、自分の中にある、取り扱いにくいなぁと思っていた性質がかなり理解しやすくなると、実際、自分で感じているのですよ。

これは、「ココロ」に属する性質だけじゃなく、「カラダ」に属する性質についても、です。

なので、名越流怒りの心理学をベースにしつつ、自分なりの身体理解と組み合わせて、いろいろ考えつつ、書いていきたいと思っています。

なので、この先、話は徐々にカラダ側のトピックへ進む・・・と思われます。

(あくまで予定、、というか、期待。ある程度の見通しはあるけれど、筋書きはまだよくわかりません。それは書き進めてはじめて見えてくる・・・笑)

 

で・・・怒り、です。

 

見るからに怒っている人の怒りはわかりやすいのですが、実は私たちの中には、自分では怒っているなんて思っていないのに、ココロの(ないしカラダの)奥底に根深く巣くっているような「怒り」があります。

「隠れ怒り」と呼んでおきましょうか。

これが、経験上、なかなか厄介なのです。

 

でも逆に、この「隠れ怒り」の存在が自分でわかるようになると、自分との接し方がすごくラクになる、そういうものでもあるようです。

 

じゃあ、隠れ怒りの例として・・・
まずは、「優越感」を考えてみます。

優越感って、まあ、自分の心理であれ、他人のものであれ、あまり気分の良い心理ではありません。
でも一般に、「怒り」とは縁遠いような気がします。
でも、この中に、怒りが隠れていると思うのですよ。

優越感というココロは、単に事実認識としてなんらかの上下性を認めることとは意味が違います。
相手を見下す、言い方を変えると、「バカにする」「軽蔑する」という意味を含んでいます。
事実関係では上下や勝敗を認識しつつ、価値としては相手をきちんと尊重するというあり方も、現実には十分成立しえる(ラグビーでいう「ノーサイドの精神」のような感じ)。
でも優越感という心理はそこでとどまらず、さらに相手をおとしめる。相手の価値を低く見なそうとするココロのあり方です。

これは裏返すと、自分の価値を、上下や勝敗という関係の中でしか認められない姿ともいえます。

前回の書き込みで触れた、なわばりを守る生き物(例えばトゲウオ)の話を思い出してください。
自分のテリトリーに侵入してくるほかの雄を攻撃する姿は、「怒り」で満ちているように見えます。
自分の所有物(なわばり)を侵されることは、繁殖を目指しているトゲウオにとっては、自分の存在価値を失うにも等しい、死活問題なのです。
それほどに深刻な問題だから、必死でたたかう。それが、トゲウオという生き物にとっての「怒り」。
生物学的には、十分に正当な意義が認められる性質だと思います。

そのトゲウオと同じように必死になって、自分の存在価値を、上下関係の中で示そうとするのが、人間の「優越感」。
なわばりからほかの雄を追い払うように、血眼になってライバルをおとしめる。
いや、実際の行動として、直接おとしめるような振る舞いをするかどうかはわかりません。でも、振る舞いはなかったとしても、心の中でそういうアクションをする。
そういう心理が、「優越感」だと思うのです。怒りをもって、自分の価値を守っているのです。

トゲウオが必死なのはわかるけど、、、人間が優越感を誇示する場面って、たいていそこまで深刻じゃないですよね。なのにそこにしがみつく。
そこに、本来不必要な怒りが隠れているわけです。
まあこれも、人間がとても“高等”な生き物になったゆえの、特有の怒りといえるかもしれない。

優越感の裏返しで、「劣等感」というのもありますね。

これはストレートに、自分の価値を認められない心理といえます。
その情けなさから、自分を責める。怒りの先が、自分を向いています。

ただ・・・それだけでもない気がするのですよ。

「自分の価値を認めてくれない世の中への怒り」という、矛先の行方が何ともつかまえにくいタイプの怒りがあります。

局面局面では、その怒りの差す先が、親や学校の先生、職場の上司などにピタッと定まる場合もあります(そうなればまだ、なだめる方法も見つけやすい)。
でもそういうふうに収斂されずに、ばくっと世の中全体に対する怒りないし不満みたいな感じでくすぶっていると、自分がなぜくすぶっているのか、自分で何とも把握できない。
きわめつけの「隠れ怒り」ですね。

ただ、ふとしたきっかけで自分が上に立つ機会が生じたとき、飛び抜けて鋭い優越感が心の中から飛び出してくることで、逆に、ああ劣等感があったんだ、なんて気が付くこともあります。

そんなことあるの?って思いました?
僕はあるとき、そんなふうにして自分の劣等感に(つまり自信のなさに)気付きました。
へーそうか、上下でしか自分の価値を確認できてないのかオレは、って。

だから、「いつも何かに怒っていた」という生き方をかっこいいと感じたのかもしれない(笑)

こんなふうにして、いろんな場面で自分の中にふつふつと湧いてくる、何とも納まりのつかない、でも無視できない心理が、「怒り」をベースに解釈していくと、「ああなるほど、要はオレは怒ってたのか」って思える気がするのです。
そうすると、難しく見えていた問題が、かなりシンプルになる。

もうひとつ、とてもシンプルになる例として、「痛み」の例でいきましょうか。

「頭痛」「歯痛」、「生理痛」や「腰痛」や「痔の痛み」、さらに「ひざを壁にゴツンとぶつけた痛み」と、痛みにもいろいろありますが、どれもその本質は、怒りと非常に近いものです。痛みの中には必ず怒りがあるといっていいと、僕は思う。

「痛み」は、感覚です。
一方の「怒り」は感情。

こう並べると、ずいぶん異質なものに思えるかもしれません。
それはおそらく、感情っていうのは心の中(ないし脳の中)で起きる主観的なもので、どちらかというと自分の脳が主体的に作り出している現象に見えるのに対して、感覚の方は、何か物理現象や生理現象に由来する客観的、身体的なできごと、という印象があるからでしょうね。

まあたしかに、感覚を引き起こす発端は、なんらかの物理現象ないし生理現象です。
体の外で起きた現象(光、空気の振動、化学物質の拡散etc)をとらえる感覚は、視覚や聴覚、嗅覚などの五感。痛みを起こすような体内現象は、体の中の炎症や物理刺激を感知する感覚システムが、刺激をとらえる。

でも、刺激を感知した感覚システムが、それを伝える先は、脳。
感覚を、単純な刺激入力から、なんらかの意味づけされた世界像として構築する仕事は、脳がやってます。
そして僕らは、その意味付けされた世界を、感覚として感知しているわけです。
つまりこの意味では、感覚も脳内現象。「脳が作り出した世界が心に浮かぶ」という構造は、感覚と感情の間に、違いはありません。

通常の視覚の働き(例えば目の前に何かが見える)であれば、「あ、○○がここにある」と視認するだけです。
それは通常、心理学で「認知」と呼ばれる、比較的落ちついた現象です。

でもそれが、痛みを起こす刺激であれば、結果としてその感覚を受け取った脳は、認知=「あー痛みがあるなぁ」と認識する反応にとどまらない、もうちょっと騒がしい反応を起こします。
「いたいいたいいたい、いたいぞバカヤロウ!」とわめくわけです(笑)

ほら、痛みの中に怒りがあった(笑)

これ、皮膚感覚で考えると、もっと理解しやすいかな。

肌を、だれかほかの人の指にやさしくつままれたところを想像してください。
やさしくつままれているだけなら、「あ、つまんでいる」と感じるだけです。
(いや、もうちょっと別の、大人の質感を伴う感情が湧くかもしれませんけど、そっちの話は今日のところはパスね)。

ちょっとずつ刺激、というか、圧迫感を強くしていくと、「あー強くなってきた」と思うでしょう。

圧迫感を冷静に把握できている範囲においては、その感覚は、「認知」といういかにも冷静っぽい用語にふさわしい、落ちついた現象として成り立っています。

でも、もっともっと強くしていくと・・・あるレベルを超えたところで・・・・「いたいいたいいたい、いたいぞバカヤロウ!」になるはずです。

その「いたいぞバカヤロウ」が始まったところから、認知を起こすような落ちついた感覚とは異質の、「痛み」という、心を逆立てる感覚に切り替わったわけです。
というか、逆立つまでは、それを痛みと呼ばないですよね。逆立つレベルになったから、「痛み」なのです。

では、なぜ逆立つのか?というと、それは、そこに「怒り」があるからです。

前回の書き込みで、灼熱のアスファルトの上で身をよじってもだえる瀕死のミミズの話を書きました。
あれは「怒り」だ、と書いたわけですが、同時にあれは、間違いなく「痛み」です。
あのミミズは、全身で痛みを感じていたはずです。

「痛み」と言い切るのにもし違和感があれば、より高等とされる生き物(最終的には人間)において痛みという形で成り立つことになる感覚のルーツに当たる衝動が、ミミズの体中を駆け巡っているに違いない。

生物学的にいうと、痛みという感覚の起源は、身体的な危機を知らせるアラームシグナルだったと考えられています。
外敵にかみつかれてからだの一部がちぎられたとか、熱水を浴びてからだの表面が破れたとか、そういう危機的状況を感知するシグナルです。

大昔の原始的な生き物が、ある日、痛みをいう感覚およびそれに反応する神経システムを手に入れたと想像してください。
その日から彼は
痛い→身をよじって逃げようとする→助かる可能性が高くなる
という生存メリットを手に入れたことになるわけです。
(もちろん現実には、「ある日突然」なんてことはなかったと思いますよ、あくまでたとえ話として)

つまり、「痛み」の起源も、生命の危機と直結している。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、カラダの能力を限界まで使って決死の離脱や逃走を試みるための起動装置なのです。
限界の力を引き出すには、本当に「バカヤロウ」と怒鳴りたくなるほどの痛みじゃないといけないわけですね。
で、そのときには、「怒り」も一緒に発生するでしょう。
だから、痛みのあるところには、怒りもある。

「怒り」と「痛み」を別なものとして分類したのは、ずーっと後世に現れた人間の、大脳皮質の都合。
一方を「感情」、他方を「感覚」というカテゴリーに当ててしまったから、別種なものとして取り扱うしかなくなってしまったんでしょうね。

さらにいうと、「怒り」はどちらかというと心理学分野(ココロの問題)、「痛み」は医学分野(カラダの問題)として位置づけられたため、扱う専門家や、対処技術が違う(前者はカウンセリング、後者は鎮痛剤、のように)ということにされてしまったのだろう。
こうなるとますます、別のもののような印象が強くなっていく。。。

・・・ああごめん、話題がずれた。
今日はそういう話をしているのではなかった(笑)

頭痛や生理痛がいつもひどい人はおそらく、心の中にずーっと怒りがあります。
それも、本人が気付きにくい、隠れ怒りです。
痛みの真っ最中においてはもちろん、今は痛くないというときも、怒りの火種がくすぶっている。

僕は以前、そうとう深刻な頭痛持ちだったので(カミさんがアメリカで買ってきた巨大なイブプロフェンのボトルを1カ月そこそこで飲み切ってしまった)、これは経験ベースの話としては、かなり確信を持って断言できます。
いつも何かにイライラしていた。

まあ実際、どこかが痛くて上機嫌の人なんて、いないですよね(笑)
痛みがあれば、不機嫌で、怒りっぽくなるのは実に自然なことです。

それは、人の姿を見ていれば、割と簡単に気づくことですが、自分ではこれが、なかなか気づかないのですよ、不思議なほど。
だから、隠れ怒り。

でもそんなときに、「あ、ミミズみたいに怒ってるのか、オレ」って思って、のたうっているミミズの姿を思い浮かべてみると、痛いなりに、ちょっと笑えます。
いや、ミミズは本当に命がけの必死なのだから、軽い頭痛ごときで比べては申し訳ないのですよ。
でも、まあ、なんか、笑える(ごめん、ミミズ)。

逆に、もやもやとした怒りに根があるような不快な気分がココロを覆っているときに、それを痛みとしてとらえてみるという方法もあります。
フォーカシングという方法などは、かなり高等な、そういうタイプの技法といえるのでしょうけれど、まああんまり難しいこと考えなくても、単純に、気分が不快なとき、「あ、これって要はどこか痛いのか?」と思ってみる。
案外、直感的に「あ、みぞおちが痛い」とか「む、胃が重いかも」とか、けっこう何かしらカラダの違和感を感じるものです。

何か感じたら、まあ単純にそこに手を当てて、ゆっくり呼吸してみる。

それぐらいのことでも、意外なほど、気分って変わるものです。

それはたぶん、ココロを変えるより、カラダを変える方が、印象が即物的でわかりやすいから。
「痛い」とか「重い」とか「凝っている」と感じる部位を、何となくだけれど、「ほぐす」とか「ゆるめる」とか「滞りを取る」という方向に持っていければ、同時にココロも変わるのです。

逆にいうと、そんなふうにカラダとココロが一体となって変化する実感からも、「怒り」と「痛み」は同じものだ、と考えるわけです。