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いつも怒っている生き方

若いころの自分は、今よりずっと「イヤなやつ」だっただろうな、と思うことがある。

ないしは「取っ付きにくいやつ」だったに違いない。

 

まあ、今でも「取っ付きやすい」タイプとはいえない気もするので(笑)、すべてを過去形に押し込んでいいかどうかは微妙なのだけれど・・・

ま、現在のことはとりあえず棚に上げるとして。

 

当時、よく感じていたのはこんなこと。

道の向こうから、ちょっとした知り合いが歩いてきたとする。

僕は視力がとてもいいので、たいていは自分の方が、相手の姿を先に見つける。

このまま進むとすれ違うことになるので、まあ、普通であればそのあたりで「やあどうも」とか「よっ!」とか、何かあいさつをする。

こちらとしても、あいさつする気がないわけではない。

 

だけど、、、たいていの相手は、目が合うと、こちらの顔を不機嫌そうな顔つきでにらんでくる。

少なくとも自分には、そんなふうに感じられる。

 

すると、あいさつも何となく、心の通わない通り一遍のものになりがちだ。

 

いつもそんな調子だと、「あいさつをする」という気軽な行為が、だんだん、何となく気の進まない、重たいものに感じられるようになっていく。
すると、遠くに知り合いの姿を発見したとき、すれ違わないで済むように進路を変えたりするようになる。
あるいは、ギリギリ近くに行くまで、気がついていないふりをするとか。

そのころの自分は、「たいていの相手が不機嫌そうににらんでくる」という現象に対して、それほどイヤなことだと思っていないつもりだったし、疑問も抱いていなかった。
まあ、自分は人から好かれるタイプの人間じゃないのだろう。べつにいいよ、笑顔であいさつできなくたって困んないよ、そんなふうに受け流していた。

いや、今思えば、自分では認めたくないだけで、当時の自分の心は、なぜかいつもそんな感じでまわりとギスギスしてしまうことに、それなりに深く傷ついていたのだけれど。
でも、そうは認めたくなかったんだな。
だから、「べつにいいよ、人と仲良くなれなくったって」と、ひねくれた姿勢を貫いていた。

ずーっとあと、もう40代になってからだったと思うけれど、あるとき、ふと気がついた。

そうか、あのころ「たいていの相手が不機嫌そうににらんできた」のは、理由があったんだな、と。

それは、「自分が、たいていの相手を不機嫌そうににらんでいた」から。

人間の表情は、基本、無意識に動く筋肉群(表情筋)の動きで作られる。
この筋肉群の大部分は、意図的に動かすことも可能だけれど(だから作り笑いができる)、例えば目の周りにある、目の表情を作るための筋肉は意図的操作ができないとされている。(だから、作り笑いをしても「目は笑っていない」状態になる)
それ以前に、そもそも表情筋群は、発生的にいうと内臓と同系の細胞群で作られている。だから、意識による操作が及ばないのが基本の姿なのである。
心臓や胃や腸の動きを意図的に速めたり止めたりできないですよね?それと一緒。むしろ、一部を随意的に動かせるようになったことの方が例外的な機能といえる。

だから、ある人の心の中に、何か不機嫌な気分があると、その人の表情は自然に不機嫌な表情をとるようになる。

ま、内臓と同じように不随意的に働く筋肉だと考えると、納得のいく話でしょう。

表情筋にはもうひとつ、「物まね筋」(英語で「mimic muscle」というらしい)という性質がある。
ほかの人の表情を目で見たとき、その表情を無意識のうちにまねして(コピーして)、同じような表情を思わず作るのである。

これは、脳科学の方では「ミラーニューロン」という神経の働きと関連づけて説明されることも多い。
目で見た人の動きを、無意識のうちにコピーさせるという神経作用。

サッカーの試合など入り込んで見ていて、キックした瞬間、自分も思わず足にぐっと力が入ったりするのは、ミラーニューロンの働きだ。

で、表情をまねする作用の場合、単に筋肉の動きのコピーにとどまらず、そこに感情が付いてまわる。
つまり、相手の不機嫌な顔を見て自分の表情も不機嫌になると、自分の心の中に「不機嫌な気分」が湧いてくる。
そうやって、相手が不機嫌であることを感知しているらしい。

「不機嫌な表情」というのは、文化や人種を超えて、普遍的な形状を持っているという。
これは「笑い」や「驚き」「悲しみ」などの感情も一緒。
だから顔に表れる感情は、人間が言葉を持つよりずっと前から身に備わった、コミュニケーションツールだったと考えられている。

で・・・自分の話に戻ると・・・

今思い返すに、20代ぐらいの頃の自分は、いつも何かに対して怒っていた。

確か中学生か高校生のときだと思うんだけど、何かの小説に、ちょっとかっこいいなと思う主人公が出てきた。
それはアメリカの小説で、今思うとその男は、年齢から考えてベトナムから帰ってきたぐらいの設定だったのかもしれない。
そういう明示的な説明はなかったと思うけれど、当時のアメリカ人にとって、このぐらいの年齢の男性で、こんな性格で、といわれれば、ああ、はいはい、とみんながうなづくような感じだったのだろう。

で、その性格というのが、「いつも何かに怒っていた」と表現されていた。

中学生か高校生の自分は、その表現を「何だかかっこいい」ととらえてしまったんですね。
それで、「いつも何かに怒っている」スタイルの生き方を、自ら進んで選ぶようになった。

怒るべき何かがあるから怒っていたのではなくて、「怒る」というあり方を自分がわざわざ進んで選んでいたわけだ。
すると、何を見ても怒りの対象にしか見えなくなる。

それぐらい、怒りという感情は、簡単に人間の心に浸食する。

だからたぶん、20代の頃の自分は、いつも怒り全開の不機嫌な顔つきで周りを睨みつけていたのだろうと思う。
地顔が不機嫌、って感じ。

その結果、顔を合わせる多くの人から、不機嫌な顔でにらみ返されていた。

そうすることで、自分の周囲の空気がいつも不機嫌さで満たされていた。

そのなかで「いいよべつに」とひねくれているのが、かっこいいと思ってた。

うーむ、想像するだにイヤなやつだ(笑)

さて・・・なんでこんな話をカミングアウト風に書いているかといいますと・・・

結局、ここには怒るべき本体などどこにもないのですよね。
にもかかわらず、自分が勝手に自分の周りを怒りで満たしている。

こういうことって、20代のころの僕のような馬鹿な若者だけでなく、けっこう多くの人が無意識のうちにやってしまっているんじゃないかと思うのです。

喜怒哀楽に代表される感情の起源は、おそらく動物本能的なものです。
たぶん、人類の祖先が最初に身につけた感情の原型は、自律神経の働きなどと連動した、興奮状態。
体が興奮していることに対応して、内的世界(今の僕らが「こころ」と呼ぶ世界)にも、感情的な高ぶりが感知される。
で、その原型においては、そんなふうに高ぶることが、その個体の生存確率を高めることに貢献したのでしょう。だから、そういう性質を身につけた。

でも、その後知能を獲得し、文化的な社会のもとで生きるようになった人間において、喜怒哀楽は、その文化がもつ価値観と強くつながっています。
「ここは怒るところだ」と思うから、怒る。
たぶん、多くの人がそんな風にして怒っているはずです。
僕の場合は「ここは怒った方がかっこいい」と思ったから、怒っていた。これもまあ、一種の価値観ですよね。

こういうのは、個体の生存確率とは、必ずしもリンクしていません。
むしろ現実には、個体の「生きにくさ」を増す結果につながるほうが、多いんじゃないでしょうか。

で・・・その価値観の部分をちょっとずらして現実を眺めると・・・
「別に怒らなくてもいいじゃん」って思えることも、実はかなり多いのです。
仏教においては、怒るべき状況など「ない」と断言されるらしいですが・・・まあそれは極論として)。

なのに怒っている。

そして、生きにくさを自分で増やしている。

これは生き方として、とっても損をしています。

最近、仕事で精神科医名越康文さんにインタビューする機会があり、彼の本や、彼が良書として薦める本を大量に読みました。
そこで彼が、自分の心の平安を保つための基本方針として強調していたのが、「怒りのマネージメント」。
心の中の怒りを、いかにして減らすか、という話だったわけです。

で・・・ああこれは、自分が若い頃にやっていたあの話だなぁ、、と、深くうなづいたわけ。

もうちょっと深く知りたい人には、こちらの本をお薦めします。

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