だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

天野さんを想って

1年前の今日、あるギター仲間が亡くなった。

いつか彼の話を書きたいと思っていたんだけれど、なんとなくそんな気分になれないうちに、気がついたら1年経ってしまった。

 

ちょうどいい節目なので、今日は彼の話を書こうと思う。

 

彼と知り合ったのは、僕がよく参加している、アコースティックギターパーティーというギター弾きのサークル。

僕がここに初めて行ったのはたしか1996年ころ、その時点で彼もそこに来ていたので、それ以来の付き合い。

亡くなるまで15年の付き合いだったことになる。

 

「付き合い」と行っても現実には、この会は3か月に1度というのんびりしたペースの開催だし、お互いにずっと皆勤というわけでもない。

これ以外の場所で顔を合わせることは滅多にないので(まあライブ会場や楽器屋でばったり出会ったことは何回かあったけれど・・・笑)、年にせいぜい2、3回顔を合わせる程度の、ゆるい関係。

深く話し込んだことも、そんなにあるわけじゃない。

 

だけど、僕の心の中では、何となく特別な位置を占めている人だった。

 

きっと、彼の言動や演奏から、彼が心から音楽やギターを愛していることが感じられて、その部分に共感していたのだろうと、今は思う。

 

その会には、主にアコースティクギターを使ってソロインスト曲を弾く人たちが集まる。
彼もそこでは、そんなタイプの演奏を披露していた。

太い親指から繰り出す「ボン、ボン」という飾り気のないぶっといベース音で、どっしりしたリズムを作り出すのがうまかった。
テクニカルにいえば、むちゃくちゃうまいというわけではない。もっとうまい人はほかにもいる。
でも、そのどっしりして、温かくて、ちょっとユーモラスなリズムのノリが、なかなかまねできない、なんともいえないいい雰囲気を醸し出していた。
オリジナル曲は、素朴だけれど「おっとそう来るか」というセンスにあふれていて、聞いていて飽きなかった。
気がつくと自然に、みんなが曲に合わせて体を気持ちよさそうにスイングさせている、そんな空気を作り出しいていた。

自分の演奏以外のときは、人の演奏にすーっと入ってくるのがうまかった。
そんなときはギターではなく、スプーンを打ち鳴らしたり、ウォッシュボード(洗濯板ですね)をチャカチャカ鳴らしたりして、合いの手を入れてくる。

人の演奏(特に、ソロ曲として演奏している音)に入り込んで、音をかぶせていくのって、ある意味でとても勇気のいる行為だ。
下手すると、その演奏をぶちこわしてしまう可能性があるわけだから。
実際、僕自身、ソロ曲を弾いている自t分の演奏中に誰かが入り込んできて音を重ねられると、その人はセッションを楽しもうとしているってことはわかるんだけど、思わずイラッとしてしまうことが多い(すみません、人間が小さいんで・・・)

でも彼がそんなふうにスプーンを鳴らして合わせてくると、たいていこちらの演奏の楽しさもアップする。
そんな不思議な魅力を持っている人だった。

音は人を表す。
彼の人柄も、そんな音楽を地でいくような、温かくて懐の深い感じだった。

当然のように、みんなから慕われ、愛されていた。

彼は、この会以外の場所でも活発に音楽活動をしていた。
ブルーグラス系のバンドを組み(ギターと、ベースを弾いていたそうだ)、そっち方面のイベントなどにもよく顔を出していたという。
僕はそっちには行ったことがないのだけれど、そこでもきっとみんなから慕われていたに違いない。

亡くなる2、3週間前だったと思うけれど、入院したという話を聞いて、病院へお見舞いに行った。
その時点ですでに、2年ぶりぐらいの再開だった。

もともと丸々とした巨漢だったのが、驚くほどやせていてびっくりした。
それでも音楽の話をすると、楽しそうに応じてくれた。
最後に握手をして別れた。それがほんとに最後だった。

残念だったけれど、最後に顔を見られたのは、ほんとうに良かった。
彼も喜んでくれたと思う。

お通夜の場に、バンド仲間の人たちが、楽器を持って集まった。
式が終わったあと、彼の体が納められた棺桶を囲んで、「送る会」として彼が好きだった曲を何曲か演奏し、その場にいる人がみんな一緒に歌った。

たぶん100人以上の彼を知る人が、彼のことを思いながら、音楽を奏でる。
すると、不思議なくらい鮮明に、その場に彼の存在感が浮かび上がってきた。

人間はみんな、自分とつながりがある人との人間関係において、それぞれの間柄に特有の態度や姿勢、表情などを持っている。
これはいってみれば、ジグソーパズルのピースみたいなものだと思う。
パズルの場合、4つの向きにそれぞれ、ちょっとずつ違う凹凸が形成されている。
その凹凸をちょうど反転させた相手と、その面でつながることになる。

人間は、つながる面が4つよりもっともっと多いだろう。
面の数だけ、たくさんの人と、いろいろなつながり方をしている。

そんなふうにしてたくさんの人とつながったところで、真ん中のピーズを取り外すと、そこにはそのピースと同じ形の穴があく。
ピースはもうないけれど、どんな形のピースだったかは、のこされた輪郭がはっきりと示している。

みんなが彼のことを思いながら歌を歌ったとき、みんなが、彼と接するときの輪郭を提示していたんだろう。
だからあの場に、彼の輪郭が鮮明に浮かび上がったんだと思う。

それで、あそこにいた人はみんな、「ああ、彼は間違いなくここにいる」と実感することができた。

変な表現なのは承知の上であえていうけれど、そのお通夜から一緒に帰ったギター仲間たちはみんな口をそろえて、「ああ、本当にいい会だった」とつぶやいていた。

それだけたくさんの人の心の中に、鮮明な輪郭を残していったんだろう。

その輪郭の一部は、今もなお僕の中にはっきり残っている。
ギターを弾いている最中に、時折、その感触が甦ってくる。
音楽を楽しむってこういうことだよなって、今でもその輪郭が教えてくれているような気がする。