だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

体の力を抜くことの意味

野口体操のクラスに通い始めて8年目。

はじめた当初と比べたら、この体操がどういうものなのか、自分なりに理解できるようになってきた。

 

そしてここ何回かのクラスは、従来とちょっと違う、実験的な雰囲気になってきている。

それが、なかなか面白い。

 

以前、羽鳥先生がテレビに出ることになったとき、アドバイスを求められたので、「野口体操って何?という質問に一言で答えられるようにしておいてください」とお願いした。

そのときの答えは「体の力を抜く感覚の練習です」というものだった。

 

なるほどね〜とそのときも思ったのだけれど、いま改めてこの言葉を思い出してみると、この言葉の意味するところに、またちょっと違う観点があるような気がしてきた。

特に、このところの実験的クラスで見えてきたこととの関係で、「なるほど」と思うようになった。

 

練習しなきゃ力は抜けないのか?と思うかもしれない。

意識して力を入れた筋肉なら、脱力も比較的簡単にできる。

二の腕の力こぶにぐっと力を入れて、そして抜いてみればいい。これは簡単だ。

 

問題は、無意識のうちに力が入った筋肉。

 

体の筋肉の中には、意図的に動かせる「随意筋」と、無意識のうちに動く「不随意筋」の2種類がある。
さっきの二の腕の筋肉(上腕2頭筋)は、随意筋の代表例。
一方の不随意筋はどんなのかというと・・
・内臓を動かす筋肉(心筋、胃腸壁の筋肉など)
・姿勢を制御する筋肉
・表情を制御する筋肉
・呼吸を制御する筋肉
などが代表的なところ。

もっとも、厳密に言うと、随意筋も無意識に動くことがある(眠っている間の動き=寝相や寝返りは無意識です)
逆に、不随意筋にも、意識して動かせるものもある(だから作り笑いができるわけです)
なので、この区別は一部オーバーラップしているのだけれど、考え方としてこういう区別があるというのは、まあわかります。

で、「力を抜く感覚の練習」が必要なのは、主に不随意筋の方。

不随意筋はしばしば無意識のうちに力んでいて、「力んでいる」ということに自分でも気付きにくい。
だから力を抜くのも難しい。

ここで「無意識のうちに力む」とき、体に何が起っているのか?と考えてみる。

筋肉に力が入るのは、脳など中枢神経系の指令が出たから。
だから、意識と関わりのない脳のどこかから、「力め!」という指令が出ていることになる。

体にそういう働きかけをする中枢神経系としてよく知られているのが、自律神経。
意識的に動かさなくても自律的に働いているから、「自律神経」と呼ぶわけだ。

自律神経は、内臓や呼吸、体温調節機能など体を維持する基本的な働きをコントロールしている。
自律神経には、体を全体として緊張状態にする「交感神経」と、全体としてリラックス状態にする「副交感神経」の2系統があり、このバランスが、体の状態を決めている。

「力め!」という指令を出すのは、交感神経の作用だ。

でもそういう指令が出ていることに、意識はしばしば気が付かない。
すると、体に力が入っていることにも気付かない。

とりわけ、交感神経の働きが慢性的に過剰になっていて、力んだ状態がずーっと継続されているような姿だと・・・自分ではそのことに、まず気付かない。
それが、慣れ親しんだいつもの自分の姿だと思っているから。

野口体操では、そんな状態の体をゆるめる感覚をつかもうとしてるわけだ。

ここで、、交感神経はよく「闘争または逃走の神経」と呼ばれている。
野生環境で暮らす生き物にとっては、天敵から逃げたり、争ったりするときに働く神経、と意味付けられるわけだ。
別のいい方をすると、野生の生物にとって、体を緊張・興奮させる必要がある主な状況は「闘争」や「逃走」である、と、そういうことになるだろう。

で・・・もう一度、不随意筋の種類に戻ってみる。

・内臓を動かす筋肉(心筋、胃腸壁の筋肉など)
・姿勢を制御する筋肉(脊柱起立筋など)
・表情を制御する筋肉
・呼吸を制御する筋肉

まあ、内臓のことはちょっと置いておいて・・

「姿勢」「表情」「呼吸」が無意識のうちに変化するというのは、実感としても理解できるだろう。
では「闘争」や「逃走」のとき、「姿勢」「表情」「呼吸」がどんなふうになっているか想像してみると・・・

まあ、死に物狂いだろうからね。笑ってるってことはありえない。

追いつめられた野良猫が、背中の毛を逆立てて、目をむいて「フーッ!」と威嚇してる、あんな姿だろう。
心理面も敵対的であり、かなりピリピリしている。

そして「敵対的である」ということを、「姿勢」「表情」「呼吸」を通じて、無意識のうちにディスプレーしているわけだ。

つまりまとめると・・・
体が「無意識のうちに力んでいる」とき、心はどちらかというと「敵対的」であると考えられる。ないしは「逃走的」。
少なくとも、友好的ではないでしょう。

ここで、「姿勢」「表情」「呼吸」には面白い特徴がある。
心理→筋肉の動きという因果関係と、筋肉の動き→心理という因果関係が、両方とも成立するのである。

具体的に言うと・・・
怒っているときは、無意識のうちに怒った顔になる。姿勢も怒り肩で、息も荒くなるだろう。
逆に、怒った顔を作って怒り肩になって、荒く呼吸をすると、心の中に「怒り」のような気分が湧いてくる。

怒りに替えて「楽しい」を入れても同様。
作り笑いでも、笑っているうちに気分が楽しくなる。この場合、姿勢や呼吸はゆったりとリラックするだろう。

でも体が力んできると、「怒り」のような不穏な感情からなかなか抜け出せないわけだ。

とすると・・・「力を抜く感覚の練習」には、心理的な意味もあることになる。

さらに付け加えると・・
「姿勢」「表情」「呼吸」が表現する感情(喜怒哀楽)は、自分の心理であると同時に、コミュニケーションツールでもある。

怒った表情と怒り肩、荒い呼吸は、間違いなく周囲に不穏な空気を伝染させる。
そういう状態の人が人前に現れれば、その場の空気にはたぶん、緊張が走るだろう。

これも、「怒り」を「楽しい」に置き換えても同じことがいえる。
笑っている人は、周りに楽しさや幸福感を伝染させることができる。

となると・・・「力を抜く感覚の練習」は、人間間のコミュニケーションに対しても影響を与える可能性がある。

・・・というあたりの可能性が、最近のクラスの中でテーマになってきている。
これが、なかなか面白い。