カラダにいいこと何かやってる?

たぶん、もう30年ぐらい前になるんだろう。

某飲料のCMで、こんな印象的な台詞があった。郷ひろみさんの台詞。

 

「カラダにいいこと何かやってる?」

 

「何かカラダにいいことをする」のが、かっこ良くておしゃれなんだ、という世の中の雰囲気を作り出すのに、おそらく相当貢献したコマーシャルです。

で、その雰囲気はおそらく、今現在の健康ブームにまでずっと、ひと続きの流れとしてつながっている。

 

まあいってみれば、今この時代、僕が「健康系の物書き」というお仕事で食べていけているルーツといえるのかもしれない。

そういう意味では、郷ひろみさんに足を向けて寝られません(笑)

 

・・・という話はまあ、半分は冗談なんだけど。

 

「健康法」的なものが世の中の関心事として注目されるのは、日本では江戸時代の「養生訓」ぐらいまでさかのぼるお話。このCMから歴史が始まったわけではありませんから。

さらにさかのぼれば、中国3000年の歴史とか、古代ローマ時代などにおいても、健康法的なものごとは語られている。

つまり、健康法にはおそらく、人間の歴史と同じぐらいの歴史があるということでしょう。

 

でも、健康トレンドの中身とか、向かう方向などが時代とともに変化しているのも事実。

かつて一世を風靡した「養生」という言葉の語感は、今やさすがに、かなり古くさいイメージは否めません。

昭和40〜50年代あたりの「健康法」も、どちらかといえばちょっとやぼったいものというか、少なくともスマートでおしゃれな印象とはかけ離れた存在だった。紅茶キノコとか、ぶら下がり健康器とか。

 

それを、「カラダにいいこと何かやってる?」というはつらつとした台詞で上塗りすることで、新しいフェーズに入っていったのは、たぶん間違いないでしょう。

 

だから、「郷ひろみがルーツ」説、半分はけっこうまじめにそう思ってます(笑)

 

で・・・その、郷ひろみさんが一つの発端になっている現代の健康トレンドですが・・・

 

「養生」と呼ばれていたころの中身とは、ずいぶん意味が違っています。

 


少し細かく吟味してみましょう。

「カラダにいいこと何かやってる?」

この発言の背景として、何かカラダにいいとされることをすれば、カラダが「よくなる」と考えているわけですね。
「よいカラダ」(=健康体)という理想像があり、そこを目指して何かをすれば、自分の体を「よいカラダ化」できる、という身体観。

ここでいう理想的な健康体とは、解剖学や生理学の教科書に載っているような、体の中の構造・機能がきちんと稼働している状態。
それが「正常」であり、そこから外れたものは「病的」ということになる。
それがどのくらい外れているかを正確に評価するのが、医学的な検査。
検査によって、その人の健康度(または病気度)は、客観的に評価できます。

まあ、少し回りくどく書きましたけど、現代の日本に住むたいていの人は、だいたいこんな健康観を持っているはずです。
だから、記述の回りくどさはともかく、話の中身は「まあ、普通そんなところでしょう」とたいていの人が思ってくれるはず。

だけど・・・歴史的に振り返ると、日本人が「健康」というものをこんなふうに捉えるようになったのは、さほど遠い昔の話ではないのです。
というか、そもそも「健康」という言葉が広く使われるようになったのも、近代以降のことらしい。

貝原益軒が養生訓を出したのは、江戸時代半ばの1713年。
養生訓の現代語訳本などには「健康」という言葉が出てくるようですが、原本がでた当時はまだ「健康」という言葉は世の中になかった。

それから100年以上たち、江戸末期→明治へと時代が移り変わっていくころに、科学や政治、経済などに関する欧米の書物がたくさん翻訳されました。
その当時の翻訳は、今と違って、対応する訳語が存在しないケースが多かったといいます。言葉というより、概念そのものがなかったから。
社会の制度や世界観、人生観などが欧米と日本で根本的に違っていたのだから、まあ当然でしょう。

だから、新しい概念を示す大量の新しい言葉が作られた。日本語の医学用語などは、相当部分がこの時代に考案されています。
例えば「神経」という言葉は、それ以前の日本語にはなかった。この言葉を発明したのは、かの解体新書の著者、杉田玄白です。

「健康」という言葉が生まれたのも、どうやらそのころらしいと考えられています。
ものの本によると、この言葉を作ったのは、緒方洪庵先生。

で、ここで大事なのは・・・「養生」→「健康」という変化は、単に表現の違いではありません。
その背後で、生命観や人間観、世界観といった大きなものの見方が、がらりとシフトチェンジすることによって、「健康」という概念が成り立ち、受け入れられるようになったのです。

今の僕らは、このシフトチェンジからさらに100年以上経った現代に生きていて、基本的にはここでシフトチェンジしたあとの世界観(西洋的、分析的、理性的なものの見方)の延長線上にいます。
なので、それ以前のものの見方がどんなものだったのか想像することの方が、かえって難しくなっています。
ですから、「養生」という言葉がもともと意味していた内容も、正直、なかなかピンとこない。

だって、「カラダにいいこと何かやってる?」と「養生」はどう違う?、と問われても、ピンとこないですよね。
「養生だってカラダにいいことでしょ?おんなじじゃん」って思うのが普通だと思います。

まあ、こうやって書いている僕自身、実感としては正直、そんなにピンと来ているわけでもないですけど(笑)

だけど、この両者の間には、世界観が180度逆転したような断層がある。

今の日本に生きる常識的な教養を備えた大人なら、体の中に「胃」「腸」「肝臓」といった臓器があることを知らない人はいないでしょう。さっき挙げた「神経」もそうです。
でも当時の世の中には、そういう解剖学的知識は普及していなかった。
知識がないというより、「解剖学的な見方で身体を捉える」という感覚が、そもそも希薄だったという。

今は臓器名として使われている「胃」「腸」「肝」といった言葉は、もともと漢方の世界で使われていた用語ですが、これは当時、特定の臓器を指していたわけではありません。
そもそも解剖学の知識はなかったし、臓器というモノが独立にあって、それぞれが機械的に働くことによって生命現象が営まれるという分析的な見方が、成立していなかったのです。
そうではなくて、「生きる」という活動全体を見渡して、それを成り立たせている機能を直感的ないし経験的に列挙し、そこに名前を付けていったのです。
で・・・のちに解剖学の知識が入ってきたときに、これら漢方用語を、機能的に近い臓器の名前として割り当てていった。
ことの順番としてはこういうことになります。

臓器に関する情報や、臓器という存在感自体を持っていなかったときの身体観。
こういう感覚を、今の時代から想像するのはとても難しい。
僕自身、一生懸命想像力を駆使して「こんな感じかぁ?」とイメージしてはみるものの、それが当時の人の感覚にどれほど近いのか(または遠いのか)、本当のところはよくわからない。

と前置きをしたうえで、、、自分なりの解釈を言葉で説明してみるなら、、たぶん、カラダを、「もの」というより、「こと」に近い感覚として捉えていたのだろう、と想像しています。

もの=実体として手で触れられて、計量できる。そんな性質に特徴づけられる存在。

こと=時の流れとともに移ろいゆく現象。できごと。川の水の流れのように流転し、常に形を変えていく。私たちはその変化を感覚的に感知する。

つまり、自然現象のなかの表象の一つのような感覚で、カラダをとらえていた。

まあ、東洋医学では現代でも、こういう見方を大切にしていますね。
「気」「血」「水」の流れを円滑にして、それぞれのバランスを整えることが肝要である、と。

水の流れが川を形作り、空気の流れが風を形作るように、「気」「血」「水」の流れが人のカラダをつくり、生かしている。
ものというよりも、できごとなんです。
だから捉え方も、客観的・実体的ではなく、もっと感覚的・主観的に感知する。

水の流れに手を突っ込むと、流れている水が手に触れていく感覚を感じます。
激しい勢いのこともあれば、柔らかくなでるような感触のこともある。

目を閉じて、脈拍をとると、似たような動的な感覚、脈動感を感じることができます。
あるいは、ゆったりと呼吸法をやっているときの体の動きの感覚にも、流れのような質感を感じとることがある。

でも、時計を見ながら脈拍や呼吸数を「1,2,3,・・・」とカウントしはじめると、そういう質感はすーーっと遠のいて、代わりに分析的な意識が頭をもたげてきます。
こうなると、私はもはや現代人(笑)

現代では、「気」「血」「水」のようないい方を持ち出すと、「その“気”っていうのは科学的にいうと何なんだ?」という疑問がしばしば投げ掛けられるわけですが・・・
こういう疑問が出てくること自体が、ベースになっている身体観や世界観の違いを反映しているのでしょう。
つまり現代の一般的なものの見方は、江戸時代に較べてはるかに「実体ベース」にシフトしている。

でも、当時の感覚でいう「気」は、現代の僕らが、例えば「電気」とか「水流」といったものを認識するときのような物理現象的把握ではなく、流れ的な質感そのものを指していたと思うのですね。
だから、実体が何であるかはあまり問題にならなかった。

もちろん、電気であれ、川の流れであれ、流動する現象を見たときに、「流れているのは電子(ないし水)という物質だ」と実体ベースで説明することは可能なのですけれど(だから「気の実体は何だ?」という疑問も成り立つのだけれど)。
でも、「流れ」という現象を、電子だとか水とかいう物質の移動(ある質量の塊がある速度で空間を移動する現象)という見方に移し替えて把握した途端に、「流れ」という言葉に付随している動的な質感が希薄になってしまうと感じる人は多いんじゃないかなぁ。
少なくとも、僕はそうです。

ん~~、話が感覚的で分かりにくいかもしれないけれど・・・
でもまあ、何となくイメージの方向は想像できるんじゃないかと思う。

で、話を「養生」」に戻しますと、、、

養生訓の内容は、腹八分目とか、飲酒は度を越すなとか、そういう摂生的なメッセージが多いわけです。つまり一言でいうなら「カラダを大切にしなさい」という教え。(呼吸法はちょっと方向が違うけど・・・その話はパス)

だけど、カラダを「こと」として捉えるなら、「カラダを大切にする」という表現の意味も、「ものを大切にする」という意味合いとは違ってきます。
相手はものではなくて、「流れ」ですから。
「流れを壊さない、流れに逆らわない、流れを滞らせない」というような態度だったであろうと考えられます。

ということで・・・、

カラダを「流転する自然現象」として捉えた場合には、“流れ”的な性質がその本質であり、「流れを壊さないように暮らす」ことが、元々の「養生」という言葉が指している意味であると。
そんなふうにまとめられるのだろうと思います。

そして、こういう見方に立ったとき、「流れ」という性質の大元(発生源)は、自然界の森羅万象とつながっています。
だから、その一環として私たちのカラダという生命現象も営まれている・・・という世界観とも、自然につながります。

この立場でいうと、養生とは、突き詰めれば「自然の営みを邪魔しないこと」となるわけです。

それに対して・・・「健康」という概念では、計量可能な物質を組み立てて、モノとしての身体ができているわけだから、例えば不具合が起きた部品を修理したり、入れ替えたりするのは当然のこと。
不具合が起きた状態が病的で、修理によって健康に戻ることになります。

これは、時計や自動車の修理に近い感覚といえるでしょう。
日ごろから取り扱いに注意して、定期点検をして、具合が悪くなったところは修理して、・・・ということをきちんと積み重ねれば(つまり「モノを大切にしていれば)、健康でいられる。

そうやって、モノとしての身体が理想的に機能している姿を作っていくのが、「カラダにいいこと」=健康づくり、というわけです。

・・・書いていて今思ったんだけど、“健康づくり”という言葉自体が、健康という言葉のこの側面を見事に表していますね。
健康は「作る」ものなんです。

それに対して、養生は、流れを邪魔しないこと。

こう書くとずいぶん違いますね。

さて、ここからが本題(笑)

「養生」的身体観に成り代わって「健康」的身体観が普及していったベースには、もちろん、医学や生物学の貢献によって、多くの解剖学的・生理学的な知見がもたらされたことがあります。
それにより、身体の状況を、客観的に計量・記述できるようになっていった。
その結果として、昔は死の病と恐れられていた病気も、ずいぶん克服されるようになった。

これはもちろん、基本的には喜ばしいことです。
どんな分野であれ、技術が進んで暮らしの快適度や安全度がアップするのは、ありがたいですから。

ただ一方で、身体観が変化した(カラダを「もの」として捉え、取り扱うようになった)ことによって、失われたものもあると僕は思っているわけです。

明治になったころ、「健康」という言葉が徐々に定着し、例えば福沢諭吉さんの本の中でもこの言葉が使われるようになっていきました。
当初は、「カラダを大切にする」という趣旨の言葉として使われていましたが、徐々に内容が変質していったといわれています。

明治政府のスローガン「富国強兵」と連動する形で、強くて豊かな国を支える強健な肉体づくりを推進するという使命のもとに、「健康づくり」が唱えられるようになっていったのです。
「軍事」「産業」といった当時の重点政策を推進するために必要な人材は、強く、秩序正しく、勤勉でなくてはいけない。
そんな国家的要請の一環の中に「健康」も組み込まれていった。

そして、そこに組み込まれることで、「健康」という概念が、「養生」とはさらに異質の方向へ向かったわけです。

当時、開国後の世の中の流れがそういう人材を求めていたから、結果として健康の概念もゆがめられ、変質させられた、と思うかもしれません。
まあ、そういう面もあったかもしれません。

でも、この変質は、養生=「自然に逆らわない」が忘れられて、健康=「理想のカラダを“つくって”いく」に切り替わった時点で、すでに始まっていたと僕は思うのです。

「理想」というのは、自然界の中に存在するわけではありません。
人間の脳が抽象化によって作り上げるものです。
解剖学の教科書に載っているような理想的な身体は、生きた人間を探しても、まず見つからないのです。
でも、たくさんの人体を解剖・分析して記述することを積み重ねると、人間の脳の中に、理想的な健康像のイメージができ上がっていく。

現代の教育で使う教科書には、そうやって作り上げられた理想像としての自然や身体の姿が、秩序正しく説明されています。
たいていの理系学生は、生の自然現象よりも教科書から多くのことを学ぶので、頭の中に、教科書に書かれていた通りの秩序が構築されます。
お医者さんだったら医学体系(病気の分類と治療法)。生物系の学生なら、生き物の分類や体内のメカニズムのしくみ。物理系なら力学や統計物理、量子力学など。。。
僕自身、そうでした。
大学と大学院では生物系の学生として生物学や分子遺伝学の教科書・論文などを熟読し、就職してからは医学専門雑誌の記者として、医学部の学生が使う教科書や医学論文を山ほど頭に詰め込んだ。

そうすると、頭の中に、教科書に書かれてあるような「理想像」としての世界が組み込まれる。
それが「正解」で、そこから外れたものは「誤り」だ、と考えるようになる。
そういう枠組みができ上がったアタマで、カラダを見るわけです。

さっき、「脈拍を数え始めると、流れのような質感は遠のいていく」という話をしました。
同じことが、ここでも言えます。
頭の中に教科書の理想像がはめ込まれた状態になっていると、カラダの生の質感に触れることは難しくなってしまうのです。

現代の教育を受けている人は、程度の差こそあれ、こういう状態になっているでしょう。
まあ、だからこそ、「理想」や「正解」を振りかざす健康観となじんでいるわけですが。

ところが・・・

実際のカラダは自然現象なので、なかなか教科書通りにはいかないものです。
例えば病気の治療でもそう。
病気は、「身体」という自然現象の上に、「病気」という自然現象が生じた状態。
たとえていうなら、地球という自然現象の上で台風という自然現象が起きたようなものでしょうか。

台風に関する科学的な記述は、気象学の教科書に載っています。
それを読めば、台風はどんな原因で起きて、どんな要因でルートが決まるのかも説明してある。
でも、実際の予報がいつも当たるかといえば、当たらないこともある。

同じように、病気の治療も、教科書に載っている標準的なことをやってうまくいくこともあれば、うまくいかない場合もある。
そもそも病気の診断も、教科書に載っているようにきちんと割り切れる判定ができないこともある。
もっとそもそもでいえば、医学的には病気と判定されないのに(検査で異常が見つからない)、本人は何らかの不調を抱えて苦しむという状態だって、山ほどあるわけです。

そういう現象を前にして、教科書に書いてある「正解」を元に考えを構築しても、まず対応はできない。

経験豊かなお医者さんは、臨床経験を通じてそういう感覚を体得しています。
僕も、取材の中で何度も、そういうことを教えてもらいました。
臨床医だけじゃない。病理医といって、治療及ばず亡くなった患者さんの解剖をする専門家(最終的に病気の原因を特定し、治療方針が正しかったかどうかを判定する立場)からも、そういう話を何度も聞きました。
「教科書にはこう書いてあるけど、実際はこんなことも多い」「教科書に書いてあるような割り切れる話ばかりじゃない」という言葉・・・

よく思い出して見ると、学生時代に生物学を学んだ先生たちの中にも、特にフィールドワーク主体の活動をしている人は、同じことを言っていました。

自然現象の中には、教科書に書かれた秩序を元に「正解」をひねり出そうとする思考回路では、対応できないことが必ずあるのです。

とくに、、、近年は世の中の疾病構造が変化して、感染症のような原因が単純明解な病気の重要度が相対的に低下し、いわゆる生活習慣病とか、加齢に伴う身体機能の衰えとか、ホルモンバランスの乱れに起因すると思われるよくわからない体調不良とか、こういう方面の症状を抱える人が圧倒的に増えています。

そういうところに向かって、教科書アタマの健康づくりを唱えても、実際、なかなかピタッとハマらないことが多いのですよ。

さて・・・それではそういう状況にはどうすればいいか。

ここで、今こういう時代だからこそ、養生=「自然の流れを邪魔しない」発想が大切だと僕は思うのです。

生き物の体には、カラダが本来持っている秩序やバランスを回復させようとする作用が、必ず備わっています。
それは「ホメオスタシス」とか「免疫力」とか「自然治癒力」などと呼ばれます。
この3つの言葉の中身は少しずつ違いますけど、やっていることの意味はひとつながり。「カラダが本来持っている秩序やバランスを回復させようとする作用」です。

「自然の流れ」とは、体内のこういう活動のことを指していると考えられます。

その流れを感知し、流れがスムーズに行くように心がける。
邪魔している要因があれば、取り除く。
「養生」という行為は、そんな発想で構築されているといえます。

それで・・100年以上前に失われてしまったそちら側の身体観に、自分の意識をもう一度シフトチェンジしようではないか、と。
そのためには何をしたらいいかな、と。

そこで出てくるのが、「カラダの声をきく」こと。
これはつまり、「流れを感知する」営みなのです。

何だ結局、自分の本の宣伝かい、という結論になりましたが(笑)
本を書き終わえたあとで、その本がようするに何を伝えようとしていたのか、クリアにわかってくるということも、よくあることなんですね(笑)

ということで、もしいま、郷ひろみさんから「カラダにいいこと何かやってる?」と聞かれたら・・・

「カラダの声をきいています」と、僕なら答えます。

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