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「カラダを意識する」という言葉が抱える微妙なニュアンス

先月、ある取材中に、ちょっと面白い会話があった。

 

相手は、東洋医学的な身体観を取り入れたストレッチ法を提唱している人。

ストレッチを、単なる筋肉の伸展運動ではなく、東洋医学の経絡を活性化させるという視点から捉え直して、メソッドを構築している。

そのために、まずツボ押し操作をやって、それからそのツボがのっかっている経絡を伸展させるようなストレッチのポーズをする。

 

具体的なやり方は、現在発売中の「日経ヘルス」9月号を見ていただくとして・・・

 

ツボ押しと、ストレッチ動作のときに、「ツボや経絡を意識することがとても大事」というお話が出てきた。

 

この「カラダ(のある部分)を意識する」という表現、ストレッチに限らず、さまざまな身体操作や呼吸法でよく出てくる。

自分で書いた本などは、全編、その話について書いてあると言っても過言ではない(笑)

 

当然、僕自身も、これはとても大事なことだと思っているのだけれど・・・言葉としてはちょっと理解が難しいというか、誤解しやすい表現だな、とも感じている。

そして、そこで真意をくみ取れるかによって、その先にすすむ世界が全然変わってしまう、非常にクリティカルな分岐点でもある。

 

例えば・・・「肩を意識する」ということをやってみる。

こういうたぐいのことに慣れている人なら(つまり、ボディワークとか、内観とか、そういうことが好きでいろいろやっているような人なら)、「はいはい」といってすぐに意識をそこに持っていけると思うけど、現実には、何をしたらいいのかあんまりピンとこない人も多いはず。
僕もそうです。最初、この手の世界に足を踏み入れ始めたころは、「は、意識する?どういうこと?」って思いました。

で、意識するためのわかりやすい方法をしてよく用いられるのが、「そこに触れてみる」というやり方。

じゃあやってみましょう。手のひらを、肩に当てて、肩を意識する。

「ああ、ここに触ってるな」という感触に意識を向けるわけです。

いや、肩以外のどこか別の場所でもいいのですけど、まあ、わかりやすい例として、肩。

これならまあ、たいていの人は何をすればいいか迷わないと思います。
「はい、触りましたよ、、、はい、触ってる感触がありますよ」って自覚すればいいだけだから。
まあ、そうすることに意味があると思うかどうかは別として、「ああ触ってるな」という感触は、触れば感じますよね、普通。

ところが・・・ここにひとつ、気づきにくい盲点があると思うんですね。

「手が肩に触っている感触」の中身を細かく吟味していくと・・

そこには2種類の感触があります。

ひとつは、「手のひら側が感じている、肩に触れた感触」
もうひとつは、「肩の側が感じている、手のひらに触れられた感触」

これ、自分以外の人が自分の肩に触れた場合なら(または自分がほかの人の肩に触れた場合なら)迷わなくて済むのですけど、自分が自分に触れた場合は、触れた手のひらと、触れられた肩が隣接しているために、この2種類の触覚を意外と区別しにくい。

で・・・「肩を意識してください~」という場合には、肩の側が感じる、手のひらに触れられた感触を意識してほしいわけです。

だけど、肩がバリバリに凝っていたり、パソコン作業みたいなことをたくさんやって頭に血が上っているような状態では、カラダの感覚が鈍っていることが多い。つまり、肩の触覚が鈍感になっている。
すると、手のひらが感じる肩に触れた感覚の方にばかり、意識が向いてしまいやすい。

この2種類の感触を、別の表現で言うと、こうなります。

「肩を外側から見た意識」と「肩を内側から見た意識」

「外側から見る」の方が、手のひら側の感触に対応します。
肩の側が感じる触れられた感触は、「内側から見る」意識です。

「内側から見る」ってどういうこと??。
例えばこんなイメージです。
自分のカラダを、中が空洞のマネキントルソーみたいなものとしてイメージしてみてください。で、自分はその中に入っている。
表皮を通じて、外側の風景がぼんやりと見えます。
上を見上げると、肩がある。
そこに、手のひらがふわーっと近づいてきて、ピタッとくっついた・・・視覚的に説明するならそんなイメージ。

これに対して、外から見た意識というのは、まあ写真やビデオ、鏡などで見る自分の姿のイメージです。

よく「自意識過剰」なんていう言葉がありますが。。
ここで言う「自意識」は、外側から眺めた自分のこと。
さらに別のいい方をすれば、他人の目に映る自分の姿。

人の目線を意識しすぎて自分がなにかおどおどしてしまうような状態のことを、「自意識過剰」と呼ぶわけですね。

「肩を意識して~」といわれて、もし外から見える肩を一生懸命イメージしたり、触れている手のひら側の感触に意識を集中したりしてしまうと・・・その道は、実は自意識過剰につながっている、ともいえます。

一方、自分を内側から眺めるのは、「カラダの声をきく」ことにつながります。

つまり、、向かっている方向は全然逆なんだけど・・・でもその違いを区別するのは、現実には以外と難しい。

ここが分水嶺なんです、たぶん。

「そこに違いがある」ということに気が付けば、たぶん区別できると思うんだけど。

で、その区別ができれば、「気を合わせる」と「空気を読む」の違いとか、「共鳴、共感」と「認められたい願望」の違いなども、何となくわかる。

・・・という感じのお話で取材も大変盛り上がったのだけれど、限られた雑誌のスペースではなかなかそこまで細かく説明することもできず・・・
まあ、僕がどんなふうにそこを表現したのかは、誌面を見ていただくとして(笑)

どうもこのへんに、興味深げなテーマが埋まっているような気がしてきた今日この頃、なのでした。