facebook=エレキギター仮説(ジミヘンはクラシックギター音楽に影響を与えたのか?)

facebook meet up! vol.8

「太古からの人類の悩み、それは人間関係。facebookは人間関係の救世主になるのか?」

 

というタイトルのミーティングが目前に迫っている。

7月8日(金)19:30スタート。場所は東京お台場。

詳しくはこちらの告知を見ていただくとして・・・

 

なぜか僕が、ゲストスピーカーとして呼ばれている。

 

「なんできたむらがfacebookについて語るんだ?」と、僕を知っている人ならみんなそう思うだろう。

自分のケータイの使い方もろくに分かってないだろうに(笑)

 

いや、もちろん自分でもそう思っている。

 

ただ、このミーティングのお題は、facebookなどソーシャルメディアの技術そのものではない。

むしろ、人間のコミュニケーションがメインテーマ。

この部分が、世の中にたくさんあるfacebookお勉強会と一線を画す感じとなっている。

まあ、だからこそ、僕みたいな人間にも出番があるわけで。

 

で・・・先日このブログに、おサルさんの組織と人間の組織を対比させつつ、「オレは聞いてないぞ」と怒る人について考察した小文があるのだけれど、そのへんの内容がきっかけになって、お声がかかったようだ。

 

※ちなみに余談。今朝ほど退任された大臣(あ、もう元大臣か?)の、youtubeで公開されたご発言は、「オレは聞いてない」とは言っていないものの、「オレのほうが偉いんだゾ」恫喝オーラに満ちていて、まさに猿山の親分の迫力満点でしたね〜(笑)

ああいうアプローチで人間関係を構成していくのが、先に書いた、存続を自己目的化する組織の典型例といっていいでしょう。

これは、豊かな食料がある森林に住むサルの群れのような組織には適した戦略ですが、震災復興という「ないもの(壊れたもの)を作り上げていく」ための組織には全く適さない戦略です。辞めてくれてよかったですね〜

 

閑話休題

で、そのミーティング、面白そうだから行くことにしたのだけれど、何を話せばいいかなぁ・・・などとぼんやり考えていたら、主催者のOさんがいきなり球を投げてきた。

 


「みなさんは、「ソーシャルメディアfacebookの登場でコミュニケーションはどう進化したのか?」とお感じになってますかあ?」

もちろんこれは、facebook上のイベント公開ページでのこと。
僕を含む3人のゲストスピーカーに、本番直前の盛り上げとウオームアップ(?)を兼ねて、軽くジャブを送ってみたっていうことらしい。

うむむむ・・・進化?
進化してるのか??

と、言葉尻にちょっと悩みつつ、返事を書いてみた。
以下、公開ページ上でのやり取りの引用。
______________

きたむら____
コミュニケーションの進化ですか・・・まあ僕は、必ずしもすべての変化が進化だとは思っていませんけどね。
個人の声がどのくらい届くとか、どんなスピードで伝播するか、などが圧倒的に変わったのがまず大きな変化ですよね。個人のつぶやきが、ときにマスメディア並みの伝搬をするわけですから。
でも人間の感覚の変化は、技術の変化より遅いので、僕らがPCやスマホに向かってつぶやいたりするときの感覚は、個人的な会話やうわさ話をするときと、たぶんあんまり違わない。つまり、その言葉が世の中にどんなインパクトを与えるかについて無意識に想定している感覚が、メディアのスケールとマッチしていないことが多いと思うのです。
だからときどき想定外のインパクトを与えてしまって驚く人が出てくる・・・
と、こんなふうに書くとこれはソーシャルメディアが引き起こしている問題点っていう話になっちゃいますね。でも裏を返すと、現状は、そういう個人的な色彩を帯びた言葉が、マスメディア並みの規模の飛び道具に乗っかったことで、マス情報とは全く質感の違う情報群が世の中にあふれ始めたと見ることもできます。マスコミュニケーションとは違う、大規模なパーソナルコミュニケーション群の出現。
で、そこには大きな可能性と、大きな危うさが共存しているように僕には思えます。それはまあ、進化といえば進化なのかなぁ・・・? 
個人がその規模に対応しやすいよう、技術が、パーソナルな対話の感覚をサポートする方向に向かえば、それは進化かもしれない。たとえばfacebookがその名の通り、情報に顔写真をくっつけて、個人のキャラと連携させるスタイルで情報を流通させているのは、素朴なやり方だけれど、人間が本能的に持っている対話感覚に即した、いい方法だと思います。そういうことがソーシャルメデイアにとって大切なんだと気づいたメディアが出てきたのは、たぶん進化なんでしょうね。

Oさん____
エレキギターの登場に近いのかもしれないですね。いままでじゃ考えられないくらいデカい音が出せるようになった。でも演奏するのはあくまでも人間。シーケンサーとは違うみたいな。

きたむら____
あ、そうですね。エレキギターでも結局、ボディをうまく鳴らさないといい音にならない。で、アコギをうまく鳴らせる人(例えばクラシックのギタリスト)はエレギの習得も早いという側面と、でもエレギをうまく鳴らす弾き方は、やっぱりエレギを弾かなきゃわからないという側面があります。エレギを弾き始めてアコギがうまくなったという話も聞いたことがありますね、そういえば。
______________引用以上。

たとえ話というのは、僕も自分の書く文章でよく使うのだけれど、使い手のものごとに関する理解度とか、把握の感覚などが如実に表れる。
うまくハマれば、ものごとの意味を見事にスパッと表現できるのだけれど、ピントのずれたたとえ話ほどつまらないものはない。
まあ、端的に言ってしまえば、、、うまいたとえ話を聞くと、「おぬし、なかなかやるな~」という感じになるわけで(笑)

で・・・この「ソーシャルメディアエレキギター仮説」は、けっこう僕のツボにずどんとハマったわけです。

なので、この線をもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

話をわかりやすくするために、もうちょっと問題を具体的に設定しましょう。

ビートルズやジミヘンは、クラシックギター音楽に変化をもたらしただろうか?」

僕はクラシックのことは詳しくないので、ここから先は推論になりますが(このブログはクラシック音楽に詳しい方も読んでいると思いますので、ご意見ありましたらぜひコメント書き込んでくださいね!)・・・

影響を与えていないわけはないでしょうね。

ビートルズやジミヘンは、文字通り世界を一変させてしまった。
音楽の聴き手の心の中までも、変化させてしまったわけです。
かつてカッコよかったものが陳腐になり、女の子がうっとりしたはずの刺激がもはや退屈に感じられるような変化が、世界中で起っていたでしょうから。
クラシック音楽ファンだって、そんな世の動向と全く無縁だったとは考えにくい。

もちろん、クラシック音楽は、楽譜に書かれた音楽を表現するスタイルですから、ジミヘンの登場によって例えば「アルハンブラ宮殿」の譜面が書き換えられる、などということは起こりえない。これはあたりまえです。
でも、ファンの嗜好が変化すれば、演奏家や楽器製作家も、変化したファンの感性にマッチした音楽を作り出すべく努力をします。そりゃあ当然、するでしょう。

実際、エレキギターを使った音楽の台頭(60年代)にやや遅れたころ(70~80年代)から、クラシックギターの世界では、ダブルトップ、ラティスブレーシングといったギターの構造面での新技術が続々と登場しています。
これらはどれも、大まかにいえば「大きな音」「派手な音」を出す構造です。
奏法の面でも、古典的奏法とはちょっと違う、遠くまで届く大きな音を出すような弾き方が主流になっているという話を聞いたことがあります(詳しい内容は知りません、ごめん)。

こういう変化が実際に、エレキギターを使った音楽を意識して起きたものなのかは、僕は知りません。当事者たちはそんな意識はないとおっしゃるかも知れませんね。
でも、そこに直接関わった当事者がどういう意識だったかとは無関係に、世の中の大きなトレンドの変化が、クラシックギター界における「こういうのが良い音です」という感性(価値観)に影響を与えた可能性は、大きいでしょう。

まあ大ざっぱにいえば、ここ50年ぐらいの世の中は、全体的に刺激的で騒がしい方向へ推移しているのは間違いないでしょうから、クラシックギターだってその流れに乗っているほうが自然なのです。

さてこの先、考えておきたいこと。

(1)そんな変化によって、クラシックギター音楽は、何を得て、何を失っただろうか。

(2)エレキギターを弾けばみんながジミヘンのように弾けるわけではない。
音は大きくてもしょぼい音しか出せなかったギター小僧崩れはいくらでもいる。
エレキギターは全体として、ギター音楽に対してどういう貢献をして、何を壊したのだろうか。

(3)ギターが本当にうまい人は、クラシックを弾いてもエレキを弾いてもうまいのか?両者は別物なのか?

(4)・・・というお話は、facebookとどの程度重なっているのか。

・・・なんだか、謎賭けみたいな書き込みに見えたかもしれませんね。
でも、今日はここまで(笑)

何の話をしてるのかわからんけど面白そう、、と思ったら、金曜日にお台場に来てくださいね~