だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

「オレは聞いてないぞ!」と怒る人問題・再考

先週の金曜日、とても楽しい飲み会があった。

 

ことの発端は、僕が2年ほど前に書いたブログのエントリー

 

「「オレは聞いてないぞ!」と怒る人の秘密(笑)」というタイトルのこの小文を書いたのは09年の1月。

この年の4月1日に会社を辞めたので、たぶんこれを書いた時点ではもう自分の腹は決まっていて、その吹っ切れた気分の中で、いいたいことをエイヤッと書いたのだと思う。そんな雰囲気が漂っている(笑)

 

もう2年も前の書き込みなので、ただでさえそんなに読者が多いわけでもないこのブログの、ずーっと奥の方に埋没していたのだけれど・・・

ふと、とある人がたまたま「オレは聞いてない」というフレーズになぜか興味を持ってネット検索をし、埋もれていたこの小文を見つけた。

 

すごく面白かったらしい。

 

まあ、ちょうど会社を辞める決心をした人間が書いた文章ですから。

まだ辞めていない人が普段、なかなか口にできないいろんな思いが、大胆にのびのび表現されていても不思議ではない。

 

で・・面白いと思ったその人は、自分だけ読んで終わるのはもったいないと思い、Facebookにこの小文のURLを貼り付けた。

Facebook上の彼のお友達が、それを読めるように。

 

何人ものお友達が読み、「コレは面白い!」と、えらく盛り上がっていったのだという。

皆さん、たまってるんでしょうね〜

 

そんな盛り上がりの中から、一つのイベントが立ち上がった。

それが、「「きたむら」さんに会いにいこうツアー!」というもの(笑)

 


「なんじゃそりゃ?」って思いますよね。
Facebookには公開イベントという機能があって、登録したメンバーが、このバーチャルスペース上でイベント企画の進行や連絡などを進めていけるのです。
その機能を使って、「この文章を書いた人に会いにいこうぜ」というイベント(というか、飲み会ですけど)が企画され、盛り上がり始めた。

それが先々週の金曜日ごろ。
イベントの日取りや場所なども着々と決まっていった。

その時点で僕はまだ、何も知らない(笑)

向こうもまだ、僕が何者なのかはよく知らなかったはず。

ところが・・・じつは僕もひっそりと、Facebookに自分の情報を登録してあった。
全然活発じゃないし、使い方もまだよくわかってないのだけれど、とりあえず自分を紹介するあれこれのことは載っている。
それを、イベント話で盛り上がっていた人々の一人が見つけた。
「この人なんじゃない?」って感じで。

で・・・それを踏まえ、イベント企画の首謀者ともいえるO氏が、Facebookのメール機能を使って僕に連絡してきた。
「よかったら友達になってください」のような感じで。

まあ、「あなたのブログを読んで面白かったから連絡しました」という筋のお話は、物書きという仕事をしている立場としては、気分が悪いはずもない。
だから、普通、好意的な返事をしますよね。
すると・・・「じつはこんなイベントが企画されてまして・・・」

で、案内されたその公開イベントページをのぞいてみて・・・・
まあ、なんというか。笑うしかない、、、って感じでしょうかね(笑)

まあでも楽しそうだったので、行ってみることにしたわけです。
それが先週の金曜日。
僕も含めて7人が集まりました。

いやぁ、本当に楽しかった。
あんなに楽しい飲み会はなかなかないぞ、っていうぐらい。
全く初対面だなんて感じさせないほど、初めから打ち解けた、いい雰囲気で。

面白いものですね~

僕は今まで、ネットが出発点になる人間関係構築術のようなものを、はっきりいって全然信頼してなかった。
リアルな関係があったうえで、それをサポートするのがせいぜいだろう、と。
もちろん事務的な連絡などなら、見ず知らずの人とでもできますよ。でもそれはそれ以上関係が深まるというようなものではない。
なにか深いつながりを感じさせるようなコミュニケーションは、ネット発では無理だろうと、そう思っていたわけです。

それがこんなことに(笑)

ただ・・・よく考えてみると今回のお話には、そうなってもおかしくないような条件があったようにも思える。
キーワードは、ことの発端となった「オレは聞いてないぞと怒る人」。

集まった7人は、それぞれの立場から、この言葉にびびっとヒットしたわけだ。
つまり、集まる前からそこに一つの共通心理があった。
そういう一種の中心軸があったから、全く畑違いの初対面同士が集まっても(そうなんです、僕以外の6人も互いによく知っていたというわけではなくて、多くが今回のこのイベントをきっかけに集まったメンバーだったのです)、驚くほどすぐに打ち解けることができた。

しかも・・・これは集まって話をしてみて「なるほど」と思ったんだけど、ここでいう共通心理は、単なる「上司に恵まれない人々の集まり」(笑)というレベルのものじゃなかったようだ。

「オレは聞いてないぞ」としばしば怒る上司や同僚がいる、という同じような環境に身を置いても、そこでどんな反応をするかは人によっていろいろ違うだろう。
まあ、たいていはイヤな気分になると思うけれど、別にそれほど気にならないという人もいるはずだ。それどころか、「そうか、偉くなったらああいうふうに言えばいいのか」とその上司から学んで、自分もどんどんそういうふうになっていく人だって、いるだろう。

一方、イヤな気分になるというのにも、いろんなレベルがある。

ここに集まった7人は、単にそういうものの言い方が嫌いだ、というようなレベルではなく、仕事のやり方や組織のあり方として「オレは聞いてないぞ」に象徴されるような態度は弊害であるとかなりはっきり認識していて、それぞれの立場で、それぞれのやり方で、「オレは聞いてないぞ」的スタンスの勢力と、日々戦っていたのである。

闘ってきたもの同士。戦友だからね。
そりゃあ、響くわけだ。

そうやって闘ってきた結果として、組織(会社)の中でみなさん、何となく似たような存在感を確立しているらしいところも、何だかおもしろかった。
つまり、同僚や顧客などから、ある意味で一目置かれていて、独特の、ほかの人にはなかなかマネできないポジションを確保しているみたいなのだ。
それは信頼や尊敬ということでもあるのだけれど・・・一方では上の方から何となく煙たがられる感じにもつながっていて・・・でもある種の実績はきちんと出していて・・・まあ一言でまとめると、頼りにされているんだけどきっと社会では偉くなれないんだろうな、って感じ(笑)

ああ、会社員だったころの自分を見るようだ(爆)

で・・・そこでいろいろと面白い話をして、改めて自分が以前書いた文章を読んでみて・・・再度、この問題について考えてみたくなったわけ。

というわけで、エピローグ終了(笑)
ここからが本論です。

「オレは聞いてないぞ!」と怒る人問題・再考。

2年前のエントリーの続編なので、できればあちらを読んでからこれも読む方がきっと面白さも深まると思うのだけれど、「そんな面倒なのはイヤだ」という人もいるだろうから、前回の冒頭分だけ、ここにコピペしておきます。
こんなことを書いたんだ、という雰囲気が分かるように。

以下引用__________________

会社という組織に勤めて仕事をしていると、ものごとを遂行していく中で、実際のそのものを形にするために必要な作業以外に、いろいろな手続きや段取りに相当な労力を取られる、という状況が少なくありません。
そんな状況でよく聞かれる言葉がこれです。

「オレは聞いてないぞ」

遂行する上であなたに聞かせる必要があると誰も思わなかったからそうなっただけでしょ?と、実務に携わっている人はみんな内心そう思うんだけれど、でもえらい役職にいる人がそんな感じでごね始めると、しょうがないのでいろんなものごとが一斉に止まったりします。
すると、止めたそのえらい人は、自分の存在感を示すという理由だけのために、いろんなことに変更を求めてくるわけ(まあ本人もさすがにそうは思ってないつもりだろうけれど・・・でも深層心理では、そんな感じでしょう)。
どうでもいい瑣末な変更なら「はいはい」と聞いておいてもどうってことはないんだけど、往々にしてそういう茶々は、根本的な部分にぶつかってくる(しかも言ってるそのえらい人はその変更が根本をひっくり返すことになるなどと気付いてなかったりする)ので、現場がパニックになります。
で、最終的には、末端で作業している外部のクリエーターさんが泣きながら徹夜したりしてものごとが何とか収拾されるわけですが、当然そこには、無益な労力とストレスと、そしてコストが発生します。
しかも根本的なところが途中で覆ったりしてるわけで、でき上がった産物(わたしの仕事の場合、それは雑誌の誌面であることが多いですが)も、なんとも中途半端でインパクトのない、できの悪いものに転びがち。

そういうことを何度か経験するうちに、やがて人は当然のごとく、ものごとを遂行するときに「根回しをする」という段取りを学ぶわけです。事前にこそっと「えらい人」の耳に入れておいて、「聞いてないとは言わせない」環境を作っておく。

その一手間でものごとがスムーズに進むようになるという話だけであれば、それもまあ悪いことともいえないでしょう。
でも、そういう段取りが慢性化することで、もっと根深い問題がじわじわとはびこっていくように、僕は思います。

それが、「誰も、仕事を楽しまなくなる」ということ。
・・・・

引用終わり__________________

で、この偉い人は結局、何を怒ってるんでしょうね?
改めてそこから考えてみましょう。

直接的には、何かお仕事のプロジェクトみたいなものがあって、その件に関する情報が自分には知らされていなかったことを怒っているわけです。
ただ、もし「情報がない」ことについての怒りであったとすれば、その人が怒った時点では、欠落していた情報はすでにその人のところに届いたはず。
だって、届いたから、欠落していたことが判明したのです。これは当たり前のことですね
そう考えると、もし情報欠落(ないし不足)への怒り(不満)が問題の本質なのであれば、情報がもたらされたことでその問題は解消されたはずであり、その人は単に「知らせてくれてありがとう」といえば、ことは済むのです。

ところが実際にはそうならずにその人は怒った・・・
ということは、その人は、情報の不足そのものに対して怒っているわけじゃないことがわかります。

まあ、こんなにごちゃごちゃいわなくても、わかりますよね。
その人は、自分への情報が「前もって」「自分のために設定された場で」「うやうやしく」提供されなかったことにたいして、怒っているわけです。
自分が「偉い人」「重要な人」という扱いを受けていないことに対して、怒っているといってもいい。

つまりストレートにいえば、「オレをだれだと思ってるんだ、オレは偉いんだぞ」という意味です。
それならそう言えばいいのにね。まったく回りくどい(笑)

ただ・・・これは2年前のブログにも書いたけれど、もしその人がその案件に関して、本当に誰もが必要と認める重要人物であれば、実務担当者がよほど間抜けじゃない限り、その人のところに話が通っていないわけはないのです。
だれだって真っ先に、その人のところに話を持ち込んで相談します。自然な流れとして。
そうならなかったということは、その人は実務的に言えば、たいして重要ではないということ。ないしは、責任をとる立場とは見なされていないということ。少なくとも実務担当者レベルではそういう認識だということになります。
(まあ現実には、実務担当者が間抜けで、あるいはうっかりしていて、本当に重要な人のところに話がいってなかったということもありえるでしょう。ただそんな場合は、その重要な人は「オレは聞いてないぞ」とはいわないでしょうね、おそらく。そうではなくて、「どうなってるんだ、説明しろ」というはずです。自分の扱われ方に対する不満や恨み言よりも、実務の内容に関心が行くのです)

つまり、実務では自分の偉さを示せないから、代わりにほかの方法を使っているということですね。
「聞いてないぞ」と恫喝的に言うことで、相手より自分が上だと思い知らせる。

書いているだけでも、やれやれ、まったくもう・・・みたいな気分です。
ただ、人間という社会的な生き物を考える上で、この「自分が上だ」といいたがる性質は、じつはかなり根源的なもののようです。
サルの研究をみていくと、その辺のことがよくわかります。

サルは社会性を持つ動物ですが、彼らの社会を支配しているのは、「どっちが上だ?」の原理だといいます。
2匹、3匹、4匹・・・と数を増やして社会が複雑になっていった場合でも、基本的にはそれぞれの1対1の「どっちが上」を基準にして、社会全体が構成されていくのです。
だから初対面の2匹が最初にすることは、力づくでどっちが上かを決めることです。そしてひとたび上下が確定すると、どちらかが成長するとか年老いていくとか大けがをするとかそういう事情で体力関係が変わらない限り、その関係が永続的に続きます。

人間もサルの一種ですから、人間の組織が、サル集団と同様の力学で支配されるのも、ある意味で起きて当然の現象といえます。
ただ、サルのように実際に腕力を振るって上下をはっきりさせるのは、現代社会においてはさすがに問題になる。
そこでその代わりに、「オレは聞いてないぞ」のような恫喝的な言葉で「オレのほうが偉い」と見せつける・・・
まあ、手段はサルとちょっと違うけど、組織の構造は一緒でしょう。

さて、ここで大事なポイントがひとつ。
サル社会の場合、上下関係を決める「力ずく」という判定基準が、実際に社会(例えばひとつのサルの群れ)を安定的に維持させるうえで、実効性をもっています。
一番腕力(ケンカ)が強かった個体がボスになることで、例えばほかの群れと遭遇したときの群れの安全レベルが、実際に最大になるわけです。
だからサルにおいては、「どっちが強い?」という力学を基本原理として社会を運営することが、客観的にみても合理的なのです。

じゃあ、人間の組織、特に会社のような組織ではどうか。

ここでちょっと唐突ですが、ネット上で面白い記述を見つけたので引用します。
渋澤健氏の「渋沢栄一ヘッジファンドにリスクマネジメントを学ぶ」という本に出てくる一説だそうです。
(僕はこの本、全く読んだことありませんし、全体として何を言っている本なのかも知りません。ただ検索でたまたま見つけた一文が、今書いているこの文脈とからめたときとても面白かったので)

「組織の存続がいつのまにか自己目的化し、一方で構成員たる個人の能力や個性を抑えつけてしまう。結果、組織そのものが外部との差別化に失敗し、競争にやぶれ、崩壊する」

たいていの皆さんはたぶん、会社組織のマネジメント論(の失敗例)としてのこの言葉を、「なるほど、そうだよね~」と納得すると思います。僕も全くそうだと思います。

ただ、サルの群れのことを考える場合は、「組織の存続の自己目的化」は、むしろ当然の目的なのです。
群れという組織は、群れを存続させるという目的のために組織されている。存続させること自体が、構成員の生存や繁殖にとってのメリットを生むのです。
近隣の弱い群れを駆逐し、なわばりを広げ、豊かな餌を手に入れて繁殖することで、組織の中の個体も生き長らえられるのですから。
そして、そういう目的で組織を運営するうえでは、「どっちが強い」原理が、実効性を持っている。

で、人間はサルの一種なので、サルの体に宿る「どっちが強い」原理を、自らの体内にも宿している。
そこから「オレは聞いてないぞ」みたいな発言が生まれるわけですね。

ところが、この原理がそのまま会社のような組織で発動されてしまうと、この原理の帰結として出てくる「組織の存続の自己目的化」が、会社組織の目的に対して障害要素になってしまうと、渋澤氏はこういっているのです。

会社は、サルの群れと違い、ほかの会社と力づくでなわばり争いをしてるわけじゃありません。
目的は、例えば商品をたくさん売るとか、魅力的な新製品を開発するとか、消費者からより信頼されるようになるとか、そういうところにあるわけでしょう。

サルの原理(=「オレは聞いてないぞ」原理)では、こういう目的にかなう組織マネージメントは難しいのです。

もうちょっと詳細まで見てみましょうか。
「どっちが上」原理が支配するサル社会において、上下関係を区別する能力は、とても大事です。
当然ながら、サルは自分より上位のサルをきちんと認識し、そのサルが自分のそばにいるときには振る舞い方を変える能力を持っています。
このあたりのメカニズムは、最新の脳科学ないし社会心理学的な研究で非常にホットなテーマで、自分より目上のサルがそばに来たときの脳の働きが、解析されつつあります。

そこで行われている営みをひとことでいうと、「我慢」だそうです。
目下のサルは、目上のサルがそばに来ると、いろんなことを我慢するのです。

たとえば2頭の間にリンゴを置いたとします。
目上のサルは、何ごともないかのようにリンゴを取って食べます。
脳の働きを調べると、目下サルがいなかったときと、ほとんど変わりません。

一方、目下のサルでは、いろいろと活発な脳活動が記録されます。
「食べたい」という本能を我慢するための活動です。
この能力があるから、サル社会は安定的に存続できるわけです。

渋澤氏の本の言葉をもう一度見返してみると・・・
「構成員たる個人の能力や個性を抑えつけてしまう」という一節がありますね。
これはまさに、サルがやっていること。我慢ができるようになったから、サルは社会的な動物になれたといってもいいでしょう。

「上下」」と「我慢」。
組織の存続自体を自己目的化させるのであれば(つまりサルの群れにおいては)、これで十分です。
ただ、こういうサル並みの組織力学では、「存続を自己目的化させる」以外のあり方には、なれないのでしょう、おそらく。

これは金曜の飲み会ででた話なんだけど・・・ある人は、「オレは聞いてないぞ」と怒る人の言葉の裏に、「オレの知らないところでうまくやろうったって、そうはさせないぞ」という、嫉妬にも似た感情を感じるそうです。
で、現実の世の中には、言葉だけではなく、実際に組織内で足の引っ張り合いをする人もいるわけで。
自分が上だと思い知らせるには、自分の強さを見せるほかに、相手に失敗させるという方法もあるわけです。相手が下がれば、相対的に自分が上にいきますから。

そんなあり方の組織(会社)が長続きするわけはないし、消費者から愛されるはずもない。
そう考えるから、金曜日の飲み会に集まったメンバーたちは、闘ってきたのです。

じゃあ、人間ならではの(理想的な)組織は、サル組織にはない何かしらの性質を備えているはずですよね。
それって、どんなものなんだろう?

2頭のサルの間にリンゴを置いたとします。
当然のごとく、目上のサルがそれをとります。
ところが・・・時々目上のサルがぼーっとしてることがあるというんですね。当然自分のものだと思っているから、安心してしまうのでしょう。
そんなふうにスキが生じると、目下のサルは、ためらうことなくリンゴを取り、さっさと食べてしまう。
いやむしろ、目上サルがそばに来た当初から、虎視眈々と隙を狙っているようにさえ見えるらしいです。

ここには例えば、「尊敬」という概念はありません。
「良心」とか「正直」もない。
あるのは、生存のための食欲。そして目上サルの前では我慢。でも見つからなければ我慢しなくてもいい。
そこでためらったり、不正行為的な良心の呵責を感じるような精神活動は、どうやらサルの中には、ない。食べられるリンゴがそこにあるのだから、手を伸ばして食べるのが当然なのです。

目上のサルの側にも、例えば「平等」のような概念は全くありません。
自分が目上なんだから、自分が独り占めするのが当然。
だから、分け前を与えるような振るまいは、サルの社会ではまず起こらない(母子関係は例外のようですが)。
まして、「みんなで食べた方が気持ちいい」みたいな概念は、まったくないといっていいでしょう。

こんなふうに書き並べてみると、人間の組織を人間たらしめている性質が、何となく浮かんでくるような気がしませんか?

僕は、一言でいうとそれは「目に見えないものを大切にする心」だと思います。

・・・なんていういい方をすると、ちょっと宗教っぽい臭いがするのがイヤなんだけど。
まあでも、宗教なんていうのは、そういう最たるものですね。

現世人類より少しだけ古い時代に生存していた、ネアンデルタール人という人々がいます。
一部は現世人類と重なる時代まで(数万年前まで)生きていたと考えられる彼らは、死者を埋葬していたという説があります。
彼らなりの何らかの心理にのっとって、死んだ家族や仲間を弔っていたらしいのです。
ここでいう「弔う」が、今の僕らが考える「弔う」と同様のものかどうかはわかりません。でも、死者の体を何らかの大切な存在として扱い、花で飾ったり、姿を整えたりしたと解釈できる形跡が、化石の状態から見つかっています。

死体は、すでに命が失われた体。モノとしてはそこにあるけれど、そこに宿っていた人格は、失われているわけです。
だから即物的にいえば、それはもうただの、たんぱく質の塊。
ほかの動物の死体と、物性的な性質において、大差ありません。

でもそれを例えば、仕留めてきたシカの死体(=食料)とは全く違うものとして大切に扱い、弔う。
その体に、少し前まで自分たちの仲間の命が宿っていたという理由で、同じようなたんぱく質の塊を特別扱いするわけです。

こういう心理が芽生えてきた組織はたぶん、サルの組織とは違う原理で運営されていたんじゃないか?

・・うーむ、話はかなり深遠なところまできてしまった(笑)

するとなにかな、「オレは聞いてないぞ」って怒る人は、ネアンデルタール人よりもサルに近いってことなのか?(笑)