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藤波心さんのブログをきっかけに考えた、原発の未来について

雑感

藤波心さんという中学生アイドルの人が、原発について書き込んだブログが、twitter上で注目を集めている。

なにしろ孫さんとか、内田タツルさんとか、twitter上のオピニオンリーダー的な人が軒並み、この文章を大絶賛しているのだ。

高橋源一郎さんは「さきほどの藤波心さんの文章、「テレビに出ているどんな専門家より論理的」から「地震発生以来、ぼくが読んだもっとも知的な文章」に上方修正します」とまで言い切っているほど。

 

これだけの人たちが絶賛しているのだから、僕がこれ以上、ただの褒め言葉を繰り返す必要はないでしょう(笑)

でも、一読して僕も、これはすごくいいと思いました。

 

ちなみに、、、ごめんなさい、僕はこのかたのお名前、全く知りませんでした。

いや、でも僕は、AKBの人たちの名前も、一人も知らないので(かろうじてAKBという存在は知っていますけど)、僕が知らないということでこの人のアイドルとしての何かを傷つけることにはならないと思うのだけど・・・でも、気分的にはごめんなさい、という感じです。

 

で、この書き込みです。

何がいいのか。

 

まず、自分の言葉で自分の意見をきちんと組み立てていること。

 

「自分の言葉」というのは、自分の経験や実感に裏打ちされたものであり、決してそれ以上にはならない。

どこかで聞いてきた難しい用語や、既成の思想体系ないし学術的な見解みたいなものを流用すれば、一見科学的っぽい雰囲気や、格調高い雰囲気をそれらしく飾ることはできるけれど、それをすればするほど言葉は自分から離れていく。

 

そこを勘違いせず、自分の言葉の中で明確なロジックを積み上げているところが、すばらしい。

 

それはいいかえれば、そこで語られている言葉が、間違いなく自分の中から発生したものだということの証でもある。

自分が「語らずにはおれない、今自分が語らずにどうする」という衝動に後押しされて語ったものであることを示している。

 

もう一つすばらしいと思うのが、この人は「アイドル」という人気商売をしているわけで、このブログの中で本人も語っている通り、こういう世の中的にセンシティブな話題について明確な意見を述べることは、アイドルとしてはおそらくあまり喜ばれることではない(少なくともこれまでのこの業界の経験則でいえばそうであるはずだ)。

 

それをわかっていて、でも書いたということは、それだけ覚悟を決めて書いたということ。

「もしかすると今の自分の位置を失うかもしれまい」ということを見越して、「それでも私はこれをいいたい、これをいわなきゃ私じゃない」と思ったから、書いたということ。

そういう覚悟が、伝わってきます。

 

で・・・それはすばらしいのだけれど、中学生が自分の言葉で語ったということは、やはり自分の経験や知識を越えた問題については、突っ込みどころも生じてしまう。

問題が問題なだけに、この書き込みのコメント欄には、そこを突っ込む書き込みが多数、書き込まれている(もちろんそれ以上に、賛同ないし応援する書き込みも書かれている)

 


それで・・・僕は藤波さんよりは長く生きているし、違うジャンルのことも少しは知っているので、自分の経験を踏まえた見解をベースに、少しアシストできるんじゃないかなと思ったわけです。

まず大前提として。
原子力問題というきわめて技術的、専門的なテーマでは、具体的なお話については専門家に任せるしかない部分がとても大きいです。
これは「電力供給」という社会問題についても同様。社会を動かすエネルギーをどう成り立たせるかというのは、最終的には技術的なお話になるわけで、その具体的な部分は専門家にしかわからないところが、とても大きいはず。
僕は専門家じゃないので、そういうところには踏み込めません。

ただ、技術的な専門家は往々にして、グランドデザインを固定化して考えます。
これは、科学という方法論から発生する特徴だと僕は思っています。
科学的な思考や実験をする上では、前提条件を明確にするのがとても大切です。
そこを曖昧にして、「科学的」と呼ばれるアプローチは成立し得ない。これは科学という方法論の特性です。
(これを話すと長くなるので思いっきりはしょりますが、科学的方法論では「再現性」「普遍性」という問題がとても重要であり、そこを議論するには、前提にしている条件を厳密に規定するのが非常に重要なわけです。前提条件が違えば、似たような実験をしても同じことが再現されるはずがない)
科学を専門としている人は、そういう思考方法が身に付いているので(それは科学を生業とする上では必要なことです)、そこが曖昧なままでのおおざっぱな議論には、なかなか身を任せにくいのです。

だけど、なにか全く新しいアイデアを構築しようとするなら、前提からころんとひっくり返すような飛躍が必要になるわけです。

この震災を踏まえて、今後の日本を考える上では、そういう新しい枠組みづくりが必要になるだろうと僕は思っています。
ある意味、そういう枠組みを作っていくチャンスでもあろう、と。
(まあ例えば「脱原発」のような方向性とか、です)

そういうことを考えるときには、これまでの常識とか前提とかをよりどころに穴を探す議論は、あまり役に立たない。
むしろ、多少無茶でも、大きな方向をバンと示すことが求められているのだと思う。
その部分では、一種の国民的議論があるべきだと思う。

そこで何かの方向が見えてくれば、それを現実とどうつないでいくか、そこは専門家とか、官僚とか、そういう実務に長けた方々にお任せするしかない。

で、藤波さんのブログは、この「国民的議論」にあたる部分に投じられた、一つぶの石。
だから、技術的な見方から穴を探してもしょうがないと思うわけ。

なので、僕としても、大きな流れを考えていく上で、こんなことも踏まえておけばいいんじゃないかと思う要素を、ちょっとだけ、付け加えておきたいと思います。

ああ、やっと前振りが終わった。僕が言おうとするお話はここから(笑)

ここ数年の「エコブーム」の中で、「フェアトレード」という言葉をご存知の方も多いと思います。
例えばコーヒー豆のパッケージなどによくついている表示ですけど・・・コーヒー豆を栽培する国はしばしば、いわゆる発展途上国というか、経済的な規模でいうと国際的なランクで上位ではない国なわけです。
そういうところで栽培をするときに、子供が過酷な労働をさせられるとか、そうう人権的な問題が、しばしば生じていたらしい。
で、それはよろしくないだろうということで、そういう問題なしに栽培されたことを証明する表示をパッケージにつけて、コーヒーを買う人たち(こちらは往々にして経済的な規模が上位に来る国にいます)に、「これをよりどころに商品を選んでください」とうったえるしくみが生まれた。
そうすることで結果として、人権的な問題の解決にもつながっていくだろうと。

まあ、大枠としてはいい話だということには、多くの人が賛同していただけると思います。(技術論はひとまず横に置きますよ)

で、、、原子力発電という存在は、コーヒー栽培国での子供(弱者)の労働に相当するような問題を、非常にはらみやすいものだということ。

これは、2日ほど前に起きたケーブル敷設作業中の被ばく事故をみると、よくわかります。

ひどい被ばくをした二人は、短靴で水溜まりの中に入っていくという無茶な振る舞いをしたと報じられています。
このことについて、安全管理上の問題が指摘されていますが(それはそれでその通りだと思いますが)、それ以前に、そういう振る舞いをしたという時点で、ちょっとでも放射性物質を扱ったことがある人なら、この二人はまったくの素人に違いないと予想がつくはずです。

僕は分子生物学系の大学院に5年間在籍していたことがあります。
分子生物学の実験では、放射性元素を取り込ませた生物分子(例えばDNA)を取り扱うことが必須です。だからみんな、それ用の講習を受けたり、取り扱い資格を取ったりする。半年に1回、血液検査も受ける。

もちろんこういう状況で扱う放射性物質の線量は、原子力発電などと比べたら、比較にならないほど微弱。

でも、取り扱いの基本方針は一緒のはず。

それは「放射性物質を封じ込める」「自分を被ばくさせない」という方針。

で、これを実現するために実験者は、身体をコントロールする一種の技能を習得しなければいけない。

僕らは普段、たとえば自宅のリビングなどでくつろいでいるときは、無意識のうちに手であちこちに触れています。
もし手指に何か特殊な染料(肉眼では見えないけれど赤外線を当てたら光る、といた性質の)をつけて1時間ぐらい普通に振る舞わせてから赤外線を当てたら、その染料が手指だけじゃなくて、顔や胴体、その辺の家具などにもベタべたついているはず。

でも、放射性物質を扱うときにそういう無意識の動作があってはいけないわけです。
それを制御する身体コントロールが要求される。

テレビの医療ドラマで、手術中のドクターがよく、「汗」とかいって、看護婦に汗を拭かせていますね。
あれは偉ぶっているんじゃなくて(笑)、患者のお腹の中に手を突っ込んで操作する人間は、決して自分の汗(そこには自分の顔面で生息する無数の微生物が含まれている)に手を触れてはいけないのです。
でも、もし素人を手術台に立たせて手術の動作のまねごとをさせたら、間違いなく、無意識のうちに顔の汗を自分で拭ってしまうはずです。
事前にそういう注意をされていても、無意識のうちに、やってしまうでしょう。
でもそれをやったら、手術は確実に失敗する。だから外科医は、絶対にそういう風に手を動かさないトレーニングを受けているはず。
おそらくこれは、プロの外科医にとってはイロハのイです。

それと同じような技能を、放射性物質を扱う研究者や技術者も、間違いなく身に付けている。
無意識のレベルでの振る舞いから、素人とは違うのです。
僕自身、かつて実験テーブルの前では、そういう風に振る舞うことができた。

たぶん、板前さんやすし職人、大工さん、飛び職人なども、何かしらそういう技能を身につけているはず。

で、、、原発の話に戻ると、短い靴で正体不明の水の中に踏み込んでいったという振る舞いは、原子力のプロだったら、絶対にやるはずがない行為のはず。これはかなり確信を持っていえます。

あの二人は、東電の関連企業の職員だったという。
どういう関連企業でしょうか。

少なくとも、原発のプロの会社ではない(例えばプラント建設に携わった会社の職員のような立場ではない)。

そんな素人が、あれほど危険な現場に行かなきゃいけない状況は、なぜ生じたか?

社会の事情がわかっている大人だったら、たぶん「断れない立場だったから」という理由を、真っ先に思い浮かべるでしょう。

電力会社は、電気エネルギー供給という現代社会の基幹部分を、独占的に押さえています。
単純な表現でいえば、すごく強い立場です。
そこから要請されたら断れない、という立場の人たちは、おそらくたくさんいるでしょう。

そんな事情で、原発の取り扱いを体でわかっているわけではない素人が、あんな危険な現場に放り込まれる。

まあ、被ばく量の管理のようなルールが、ないがしろにされたということではないでしょう。累積の被ばく量を量るセンサーは、きちんと体につけていたはず。
でも、ああいう現場では、それさえつければ安全に振る舞えるというものではない。安全かつ効果的に作業をするには、それ相応の、体が覚えたプロとしての振る舞いが必要なのです。

そういうプロではない作業員が、ああいう現場に放り込まれる。

もちろん今回の事故は、非常事態下のことであり、やむにやまれぬ人海戦術だったという理解もできます。
ただ、原子力発電という巨大プラントを運営する上では、おそらく日常業務においても、「被ばくしなければいけない人々」とうのは確実に発生しているはずです。

そこでの線量管理や技能習得は、非常事態である今よりは、きちんと行われているかもしれない。
でも、誰かの体を犠牲にすることで成り立っているという存在の性質は、一緒だと思うのです。

これって、フェアトレードでしょうか。

残念ながら、電力はコーヒー豆と違って、消費者がフェアトレードじゃないと判断したからといって別のブランドを選ぶことはできません。
でも、社会の方向として、「そういうものを減らしたい(できればなくしたい)」という合意を作っていくことはできるはず。

ああ、残念ながら、書き込みをいったん中断しなくてはならない。
もう一ついいたいことがあるのです。
続きはたぶん、明日。