カンニング騒動
twitterにもちらっと書いたんだけど。。。
今回のカンニング騒動をニュースなどで眺めていて、つらつらと思ったこと。
まず、前提として。
入学試験というものはルールに則った制度なので、そのルールを破ったことについて責任を問われたりするのは、まあ当然のことというしかない。
今回の件で、くだんの受験生が今後受けるであろう罰則が、事の重大さと照らして思いか軽いか、という議論はあってもいいだろうけれど、今日はそのことについて書くつもりはない。
本人が「大学を受験する」という進路を選んだ限り、そこで定められたルールは、守らないといけない。それがいやなら受けなきゃいい、というところは、まあ動かしようがない。
・・・で、ただしもちろん、こういういわゆる常識的なことをいいたくて書き込みを始めたわけじゃありません。
今回の件が罰せられるのは、まあルール違反なんだししょうがないけどさぁ、それにつけてもなんかなあ、どうなんだろうなぁ・・と思わずにおれない、その先のお話をしたいわけです。
受験のためのお勉強って、僕も20年以上前にやっていました。
その当時の自分の実績について話すのはあんまり好きじゃないんだけど、この件について何かしら口を開く上で、自分の立場を明かしておく必要はあると思うからあえて書きますけど、僕が入学したのは今回のカンニングが発覚した、京都にある国立大学の理学部。
理系大学の偏差値ランキングでいえば、上から何番目かぐらいには入るところです。
つまり、受験というゲームで僕は、けっこうな成果を収めた経験があるということ。
その自分の経験をもとにいいますが、テストで点数をとるというゲームで大事なのは、「いかに頭を働かせないか」だと僕は思いながら、やっていました。
もうちょっと正確に言うと、「テストの回答を導くために、まっしぐらに盲目的に進み、それ以外の思考を止める」ということ。
これは、僕がたしか小学校の高学年ぐらいのときに経験的に気がついたこと。
鶴亀算って、ありますよね。
「鶴と亀が合わせて10匹います。足の数の合計は26本です。さて鶴とカメはそれぞれ何匹?」みたいな問題。
この古典的な算数の問題を初めて目にしたとき、僕は笑えて仕方がなかった。
だって、鶴と亀ですよ。
当時、我が家では亀を飼ってたんです。お祭りの縁日で買ったミドリガメ。
小学校の1年ぐらいのときに買ったので、たぶんその時点で4、5年は飼っていたのでしょう。その後、僕が結婚したあとまで実家で飼われていたので、最終的に30年近く生きたのだと思います。
当時のそのカメ(ゴン次郎という名前でした)は、体長がたぶん10cmぐらい。
一方、鶴です。
北海道生まれの僕にとって、鶴といえば丹頂鶴。
僕は小学生の一時期、釧路市に住んでいたことがあり、野生の丹頂鶴を見たこともあります。列車の沿線に普通にいたので。
ものすごく大きな鳥です。体長150cm、翼の幅は2mを超すようなサイズです。
鶴と亀といわれて、僕の頭には、この2種類の生き物が浮かんだわけです。
一方は10cm、他方は2m。
そんな生き物同士を集めてきて、一緒くたに数えて「さてそれぞれ何匹?」って、・・・あまりに馬鹿げた設問だと思いません?
「いや、ゾウガメなら1m以上あるぞ」とかいう反論を思いつく人もいるかもしれないけれど(笑)
もちろんそういう話じゃないのはわかりますよね。
しかも、輪をかけてあほらしいと思うのは、「足の数が合計26本」という設定
。
だって、足の形も大きさも、鶴と亀じゃあ全然違うじゃない。
そんなの、見ればだれでも「これは鶴の足」「これは亀の足」ってわかるのに、それを無視して全部合算して「はい26本ありました」なんて、そんな間抜けな数え方、だれがやったんだ??
いや、これが例えば「七面鳥と鶏の足の数が合計10本でした」みたいな話なら、まだわかりますよ。「食べる」という目的が浮かんで見えるから。
でも、、、鶴と亀って、、、なんなの、それ。。
で・・・しばらく笑っていて、でも、はたと気づいたわけですよ。
「あ、こういうこと考えてたら、問題を解けないな」って。
実は当時、僕はテストで、いわゆるケアレスミスといわれるようなタイプの間違いをちょこちょこしていたんですね。
それはおそらく、この鶴亀算のとき同様に、問題を解くという方向とはあんまり関係ないところでいろいろな疑問がわいたりして、そういうことをあれこれ考えているうちに、問題を解く方に身が入らなくなったからだったのだろうと思います。
で、最初はそんなに気にしてなかったと思うんだけど、先生からも注意されるし、そうなれば自分でも解き方がわかっている問題を間違えて点数がとれないのは、やっぱり悔しいので、「なんでだろう??」と考えていて、、、そして、その鶴亀算のときに、気づいた。
「ああ、こんなことで笑ってるから、間違えるんだ!」と。
で、心に誓ったわけです。
今後、テストのときは、心を鬼にして(笑)、テストを解くこと以外の思考は止めるぞ、と。
そう誓ったことを今でも覚えてるんだから、一大決心だったわけですよ。
それがたぶん、10歳前後ですよね。
そこから大学を受ける18歳まで、思考停止の練習を、日々積み重ねたわけです。
その後大人になって、まあ例えば会社員になって、そこで大人の社会で遭遇するいろいろな問題に直面したとき、気づかされるわけですよ。
「ああ、あの長年の練習で培った思考停止技術は、なんだったんだろう」と。
どうしてもう少し、多角的に物事を見る能力を育てることを、学校でやらなかったんだろうな、、、と。
まあ、、もちろん、家に飼っている亀みたいな具体的事象ばかりでなくて、抽象的な数学的概念を頭の中で操れるようになるというトレーニングには、価値がないとはいいません。むしろ、それはそれで非常に重要なことでしょう。
だけど、、、そんなトレーニングをテスト(限られた時間でなるべく多くのクイズの答えを出す行為)というシチュエーションで繰り返すことが、具体的事象に思いを巡らす感性を、圧殺する方向に作用するのではないか、と。
少なくとも僕は、自分で「こっち側は作動させないようにしないと点数とれないな」と判断して、そうする道を意識して選んだわけです。
それって、、、教育というもののあり方として、どうなんでしょうね??
さて、ここまでの話じゃあ、「それがカンニングと何の関係があるの?」と思うでしょうから、次はもう少し関連のある話を。
テストを解くために培った技術は、ほかにもいくつかあります。
その一つが「自分だけで考える」ということ。
まあ、ここでいう「考える」の中身は、上で書いた「まっしぐらに盲目的に進む」の部分であって、ほかは思考停止させているわけだから、「考える」という行為の本質として成り立っているのかという疑問はあるけれど、とりあえずこっちの文脈ではそれは横に置いといて・・・その「解く」という部分は、自力で考えるわけですよ。
だって、カンニングはしてはいけないわけだから。
だけど・・・これも大人になって遭遇する問題を解決しようとすると、全部自力でなんとかしようという姿勢は、実はあんまり建設的じゃない。
むしろ、経験や知識を持っている人に聞く(そういう人の能力をうまく活用する)ことの方が、現実にはよほど重要だったりする。
これは、会社員であろうと自営業であろうと、実社会で生活している人なら、実感として賛成してもらえると思う。
このときにすごく大事なのは、「だれに聞くか」。
「きっとこの人ならいいアイデアを出してくれそうだ」とか、「アイデアはそこそこかもしれないけれど、きっと協力的にちがいない」とか、「この人が誰かを紹介してくれるだろう」とか、そういうことを察知するのがすごく大事。
これを間違えると、かえってまとまるものもまとまらなくなる。
だけど、ルールとしてカンニングが禁止されているテストは、そういう察知能を養うことにはつながらない。
人に聞く技術やマナーも、養われない。
むろん、「だからカンニングしてもいい」とはいわないですよ。
でも、人に聞くことを禁じたクイズばかり練習するのはどうなんだろう、って思うわけです。
「そういうことは、テストではなくて、学校生活全般の中で身に付けるものだ」という意見もあるかもしれませんが。
それは、学校生活において、「テストで点を取る」という行為以外の物事も、テスト並みに価値視されている状況が成り立っていて初めていえることだと思います。
ほかの物差しが、果たしてどれほど価値あるものと位置づけられているか。
これは、建前としての話じゃないですよ。
そこにいる人たちの実感として、そこでいろんな営みをやっている人たちが醸し出す空間を満たす空気として、どうなっているか、ということ。
まあ、僕は自分がかつて生活した学校以外のことは知らないので、この部分に関してな断定的なことはいえませんけれど。
ただ、疑問だなぁ~とは思っています。
「子供の社会」みたいな空間では、ほかの価値観もあったと思うんですよ。
「運動できる子はかっこいい」とか。
「みんなを笑わせられる子は人気がある」とか。
でも・・・学校は子供社会の延長のはずなのだけれど、その上からがつんと、もっと大事だということになっている価値観が移設されてきたような、そんな印象がありました。
その価値観は、いわゆる「勉強ができる子」というカテゴリーに属していた僕にとっては都合のいいものだったわけだけれど、必ずしも楽しいわけじゃなかった。
だって・・・我慢して思考停止しないといけなかったわけだし(笑)
テストというルールのゲームを繰り返す中で、自分の中で無自覚のうちに培われ、身につけたであろう感覚を、あと二つほど挙げておきます。
ひとつは「どんな問題にも正解が一つだけある」という観念。
もう一つは、「正解を出すという行為は、競争である」という感覚。
これらもまた、大人になって遭遇する大人の問題をなんとかしようという状況になったとき、いろんな局面で、プロセスを阻害します。
たぶん、わかる人ならすぐピンとくると思うので、これ以上深くは説明しませんけど、この二つの感覚を色濃く身に付けた人が、何かの問題を解決しようとしている大人の組織に入ってきた場合、たいてい、ものごとはうまくいかなくなります。
自分自身、この2つの感覚が想像以上に自分の中に深く染み付いていることにあるとき気づかされて、愕然としましたから。
・・・・ってなことをつらつらと考えつつ、今回のカンニング騒動を眺めていると、、、、
なんかなぁ、どうなんだかなぁって、思うわけです。
カンニングという行為に対してではなくて、騒動に対して、ですよ。
まあ、だからこうすればいいんじゃないかという話ではないんですけど。
なんかねぇ・・・息苦しいよね~