だからやっぱりギブソンが好き

Gibsonの古いギターと、ラグタイム音楽、そしてももクロをこよなく愛するフリー物書き、キタムラのブログ

整体の講座に通ってます

今日は朝からボーーーッとしてます。

 

ホントはばりばり原稿を書くことになるはずと思って1日開けていたんだけど、ふたを開けてみたら原稿を書くための文字数のわく(レイアウト)がまだ上がってこないので、こっちとしては待つしかない。

雑誌の原稿はたいていの場合、先割りといって、写真や図版を割り付けたレイアウトを先に作るのです。で、そこで指定された文字数(例えば本文が14文字×120行で、写真のキャプションが60文字を3本で・・・といった具合)

文字数、つまり文章の長さの見当がつかないところでは、書こうとしているお話の構成も考えにくいので・・・下準備さえ、手を付けにくい。

 

当然のことながら、このつけは数日以内に巡ってくるはずなので、いつまでもこののんびりした気分が続くわけはない。

なのでまあ、、、せっかく望外ののんびりがやってきたのだから、ここはひとつ存分にのんびりしようではないか、と。

 

で、、今日の夕方には某整体系のワークショップに参加する予定。

たぶん体も存分にほぐれることでしょう。

 

う〜ん、会社に勤めていたときには考えられない時間だなぁ。月曜の朝からこんな気分でいられるなんて(笑)

 

まあそのかわり、正月も原稿書いてたけどね(笑)

 

実は昨日も、これから行くのとは別の先生が指導する、整体系の講座に参加していました。

 

昨日は、節分(季節の境目)のころにやっておくといいといわれる、ちょっとした施術を、参加者同士でやってみたのです。
思った以上にうまくいった気がしました。目の疲れが取れて視野が明るくなったし。

で・・・こんなふうにたくさんの整体系の講座に参加していると、まるで僕が「整体」という技術をマスターしようとしているように見えるかもしれないのですが・・・・それは、実はちょっとニュアンスが違います。

あ、ここでいう「整体」とは、野口整体野口晴哉さんが創案した技術体系)の流れを汲む技術のことです。
野口整体およびそこから影響を受けた方が行っている整体は、世の中で「整体」と看板を出して営業している施術の中身(一般には「ぼきぼきっ」と関節をならしたりして体を修正していくことが多い)とはかなり違っていまして、ぼきぼきはやりません。背中や腰、肩などにただ手を当ててじっとしているようなアプローチを多用します。
まあいうなれば、見た目は「お手当療法」のような感じです。

とりあえず僕は、「ぼきぼき」の方にはほとんど興味がありません。

いや、あれがダメだといってるんじゃないですよ。僕の関心の範囲にはないということです。

でも、お手当で治す技術も、そんなに興味があるわけじゃないんです、正直言いますと。

というのも、僕は、いわゆる「施術者」になりたいとは全く思っていないので。
たぶん、そっち方面の適性も全然ないと思うし。

現実問題として、「●●施術サロン」みたいなお店を開業してやっていくために必要な適性は、さまざまあると思います。接客業的な部分も含めて。
そんなことを、ワタシができるとはとうてい思えない。これは、ワタシを個人的に知っている人ならおそらくほとんどみんな、うなずくはずです(笑)

で・・・・それならばなぜ、整体(野口系の)の講座とか、ワークショップとかに出かけるのか?

これは、自分の中でも明確な目的がクリアになっているわけじゃないです。
ただ、、、なんか、やってるとおもしろいんだな。そうとしかいいようがない。

野口晴哉さんという人は、人間観察の超人だったのだと思います。
心の動き、それに対応する体の変化(その中には外から見える形の変化もあれば、外からは到底見えると思えない内臓や骨格の動きも含まれます)、さらに体自体がベースとして持っている生命力みたいな勢い(具体的には免疫の活性とか、呼吸の強さとか、細胞内の代謝の活性とか、あるいはそういったものの強さの合算として現れる何か総合力みたいなもの)。
そして、それらの要素と、人間関係などの環境との間で起きる相互作用。

そんなものをぱっと見極める、なんだかとんでもないセンスを持っていたらしい。

で、そういうものが見えると、例えば病気ないし不調に陥った人を見たときに、その人の体がなぜそんなふうになってしまったのか、西洋医学とは全然違うアプローチからの解釈ができてしまうわけです。
で、そこを修正すれば、なぜか病気が治る。

「なぜか」というのは、見えない人(普通の人)の素朴な感想であって、それが見える野口さんにはいたって当然のことだったに違いない。

そうなると、世間では「この人は超人的な力で病気を治せる」ということになっていくので、そういう行為を期待される場面が増える。
技術として教えてほしいという話にもなっていく。
そうやって残された技術があるわけです。

まあ、それはそれでいいとして。

でも、僕の個人的な感覚としては、整体を、「治す」ことを目的にしたハウツー技術の集大成としてとらえてしまうと、おもしろさが激減してしまう。
その手前のところに、膨大な人間観察があるわけです。

整体の講座に出向くと、具体的には何かしら施術的なことを教えてくれるわけですけれど、それを説明する整体的なロジックとして、その人間観察(ないし人間理解)が語られる。
そこが、僕にとっては一番おもしろいところ。